今回はおは朝編です。ま た 猫 か 。
引き続きホモにイージーモードな世界になっています。名前のついたモブさんがいますので、苦手な方はお気をつけ下さいませ。
「今日の一位はさそり座のあなた! ラッキーアイテムはクッション。今日はヒーロー、ヒロインになれちゃうかも! ドキドキの一日になるでしょう。 そしてごめんなさーい、今日の最下位は蟹座のあなた! ラッキーアイテムはオスの三毛猫。ラッキーアイテムがないと危険を免れないかも……!? 身の回りにはくれぐれも気をつけて!」
――その日、緑間真太郎は死を覚悟した。
第2Q:チャリアコンビ、翻弄される
そうだ、辞世の句を読もう。
緑間はどこか達観した気持ちで遠い目をした。窓から覗く空はこんなにも青いのに、緑間のお先は真っ暗だ。
おは朝占いは今日、緑間真太郎を殺しにきている。何せ堂々の最下位なだけでなく、ラッキーアイテムが苦手な猫である。しかも希少性の高い三毛猫のオス。遺伝子の関係で、三毛猫の中でもオスが産まれてくるのはほんの一握りでしかない。無茶振りもいいところだ。緑間は内心で毒づいた。
しかしどう足掻いても、目の前に広がるのは抗うことのできない運命。短い人生だった、緑間はふっと自嘲気味に唇を歪めた。
「しんちゃああああああん!!」
すると早朝の静寂を破って、ガラガラガラと煩いばかりにお馴染みの音が聞こえる。普段ならご近所を慮ってなるべく静かにチャリアカーを走らせてくるのに、今日はそんな気遣いもなく急いでいる様子が窺えた。
「……高尾?」
必死な高尾の叫びが届き、緑間は腰を浮かせた。玄関のドアを開けると、丁度高尾がチャリアカーを止め、門扉を開けているところだった。緑間の姿を視界に納めて、高尾はほっとした表情を見せる。よほど慌てていたのだろう。息切れ気味の彼の頬は赤く染まり、うっすらと汗をかいている。
「真ちゃん……! 大丈夫!? 生きてる!?」
「まだかろうじて生きてるのだよ。というより……そっ、それは!」
目の前の高尾が腕に抱えている物体を見て、緑間は驚愕した。
「へへっ、蟹座のラッキーアイテム、三毛猫! ちゃんとオスだぜ!」
高尾はにかっと得意げに笑った。彼の腕がぶら下げているのは、 白・茶色・こげ茶の毛色を持つ猫だ。幼さを脱したばかりの大きさをした猫は、やや疲れた様子でぐったりと高尾にされるがままになっている。
「高尾ぉおお!!」
まさかの。まさかのオスの三毛猫である。緑間は歓喜に全身を震わせた。
「どうやって見つけたのだよ!?」
「本当、すげーレアなもん指定してきたよなあ、おは朝。たまたま近所の野良猫が、オスの三毛猫で珍しいなあって見てたんだよね。それ思い出して、徘徊してるの捕まえてきた」
ところどころ高尾の肌は、猫の爪による生傷が浮いている。相手は野良猫だ。捕獲するにも一苦労だったのだろう。
じん、と緑間の胸に暖かさが広がる。流石に今日ばかりは駄目かもしれないと、珍しく気弱になっていたのだ。手に入るわけがないと覚悟していただけに、喜びはひとしおだった。
「よ、良くやったのだよ! さすがはオレの下僕!」
感激のあまり高尾に飛びつきそうになった緑間であったが、すんでのところでぴたりと足を止める。てっきり抱き締められるものとばかり思っていた高尾は、空振りをくらって怪訝そうに緑間を仰いだ。片手を広げ、緑間を受け止める気満々で準備万端だっただけに拍子抜けしてしまう。
「およ、真ちゃん? どした?」
「……とりあえずお前はその猫をどうにかするのだよ」
「ちょ、ラッキーアイテムなのに扱い酷い! どんだけ猫嫌いなんだっつの」
高尾の腕に猫がいることで我に返った緑間は、少しだけ青褪めてしっしと手を振る。ギクシャクと機械のようにぎこちなく身を翻す姿が面白くて、高尾は思わず吹き出した。
「うっ、煩い! そいつは今日、お前が持ち歩いてろ、いいな。キャリーを持ってくるから、大人しくしているのだよ」
「へいへーい」
つまりは、一日緑間の傍を離れずにいる口実ができるわけで。高尾はにやにやしながら、猫の喉をくすぐりつつ緑間を待った。
ややあって、玄関に戻ってきた緑間は、何故かボロボロの埃まみれになっていた。
「おいおい、真ちゃん大丈夫かよ!?」
「……キャリーを物置で探していたら、上から荷物が落ちてきたのだよ」
「ちょっとだけの間だってーのに、おは朝恐ぇよ」
改めて、おは朝占いの的中率の凄さを実感する二人であった。否、それに左右される緑間の体質がおかしいのか。良い時はとことん強運を発揮するくせに、悪い時はどん底にまで不幸を呼び寄せるのだから厄介だ。
しかし、猫をキャリーに入れてしまえば、緑間に恐れるものなどない。漸く普段の調子を取り戻してきた緑間は、腕を組み顎を反らしてフンと鼻を鳴らした。
「……高尾、今日は勝手な行動を慎むのだよ!」
「はいはい。心配すんなって、ずっと真ちゃんの隣にいるからさ」
「はい、は一回でいいのだよ」
緑間の命を握るラッキーアイテムを預かるのだ。素直じゃない物言いに苦笑しながら、高尾は任せておけと胸を叩いた。
* * *
学校に猫を持ち込むなんて……と批難されるかもしれなかったが、そこは緑間のおは朝体質をわかっている秀徳高校。本日の蟹座の運勢が最悪なことを把握している教師たちは、あえなく緑間に許可を出した。
猫は片時も緑間から離されることなく、緑間の後ろの席に臨時で設置された机の上にキャリーごと平に平にと奉られた。今日一日の緑間を、ひいては秀徳高校を災難から守ってくれる大切なラッキーアイテムだ。まさにお猫様とはこのことである。
朝の高尾との格闘で疲れていたのだろう。猫は授業中に騒ぎ立てることもなく、大人しくキャリーの中で丸まっていた。
「いやー、最初はどうなることかと思ったけど、こいつのおかげで無事過ごせそうでよかったな」
昼休み。猫にご褒美の餌を与えながら、高尾がにこりと目を細めた。笑える範囲の不幸であれば、ラッキーアイテムの奇抜さも相俟って、高尾も冗談交じりに緑間を揶揄う。けれども、流石に最下位な上にラッキーアイテムが鬼畜な時は、何の試練だと言わんばかりに緑間の命を狙いにかかってくるから真面目に洒落にならない。
「フン。まあ、たまにはそいつもオレの役に立つのだな」
「もー、素直じゃないんだから、真ちゃんってば」
大した被害もなく、心穏やかに恙無く時間が過ぎていく。
しかし、補正を施しても、ついていないのが最下位だ。
「真ちゃん……っ!!」
「!?」
不意に鷹の目が捉えたのは、緑間目掛けて外から飛び込んでくる弾道。咄嗟のことで、高尾もがむしゃらに身を挺して庇うことしかできなかった。机は無造作に薙ぎ倒され、緑間は強く身体を押される。
刹那、ガシャン! と激しい衝撃音が教室を襲った。同時に、複数の机と椅子が派手に倒れる。ガラスの破片が細かに飛び散り、ばらばらと床へと落ちていく。立て続けの大きな音に異常を察したクラスメイトたちが、突如起こった窓際の惨状にどよめいた。
飛び込んできたのは、野球ボールだった。昼休みに野球で遊んでいた男子生徒たちの球がすっぽ抜け、校庭に面している緑間たちの教室まで飛来してしまったようだ。
「う……」
これだから、おは朝最下位の時は気が抜けない。高尾が身体を張ってくれたおかげで、どうにか直撃を免れた緑間は、よろよろと上半身を起こした。力任せに押し倒されたので、強かに打ちつけた腰が痛い。
「っつー……。って! 大丈夫か、真ちゃん! 怪我は!?」
「……オレは問題ない。それよりお前の方が……!」
緑間の上では、高尾が青褪めながら案じてくる。彼の背中には、大小ガラスの破片が散乱していた。もし高尾が庇ってくれなかったら、病院送りになっていたことだろう。ぞっとなって、身震いする。
「オレもヘーキ。間一髪……」
「助かったのだよ……」
「うへぇ、おは朝マジこえぇ……! 油断したところでこれだぜ!?」
互いの無事を確認して、ほっと胸を撫で下ろす。
「って、ああああああ!!」
「どわっ! オイオイ、急にどうしたよ!?」
すると、急に緑間が、らしくない叫びをあげて高尾を押しのけた。緑間の胸の上からずり落ち、危うくガラスの海にダイブしかけた高尾は、何事かと目を瞠る。緑間の視線の先を鷹の目で捉えて見れば、教室の隅で、もそりと動く三色。高尾ははっとなった。混乱のどたばたで、すっかり猫の存在を忘れていた。二人が倒れた拍子に、きっとキャリーも一緒に落下したのだろう。中にいた猫は、偶然開いた扉に乗じてまんまと外へ躍り出てしまった。
猫はとかく警戒心が強い。
大きな音と見知らぬ人間が押し寄せてきたこと、ずっと狭いキャリーに押し込められていたことで、猫のストレスはマックスだった。そして、そんな猫が外に出たらどうなるか。
果たして、キャリーという拘束から解き放たれ身軽になった猫は、一目散に教室から逃走を開始した。
「にっ、逃げたのだよ!! おい、高尾! 猫が逃げた!」
「ちょ、待って真ちゃん、ガラス危ねーって!! 動かないで!!」
「しかし……!」
ここまで緑間が平常心を失っているのを見るのは、初めてじゃないだろうか。
けれども、鋭利なガラスの破片は、迂闊に動いたら直ぐにでも皮膚を切ってしまいそうだ。危険物にまみれたまま、焦って追いかけていきそうな緑間を、高尾は血相を変えて止める。
こんな時、フォローしてくれる肝心の高尾も、緑間に巻き込まれてすぐには動けない。
どうにもならない現状に歯噛みする。このままラッキーアイテムの猫がいなくなってしまったら、緑間の不運は益々加速するだろう。
「ええい! 生徒会副会長の権限において命ずる! 猫を! 猫を捕まえるのだよおおおお!!」
もはや、なりふり構っていられなかった。倒れこんだままの間抜けな姿で、緑間がばっと片手を掲げ権限を行使する。
混乱の中にありながらも、現状を素早く把握した周囲のクラスメイトたちは、緑間の声に乗せられてこぞって行動を開始した。
「ラジャー! 任せておけ! おい、暇なヤツ、追いかけるぞ!」
「伝令! 他のクラスにもラッキーアイテム捜索を伝えてこい!」
「じゃあ俺、生徒会長探してくる!」
「私、職員室に行って先生に連絡してくるね!」
「あっ、ついでに職員室から掃除機借りてきて!」
「とにかく、緑間君と高尾君を動かせるようにしないと。ホウキとちり取り!」
「みんな、ガラスの破片で手を切らないように気をつけてね!」
「よっしゃ、祭りだあああああ!」
――緑間と高尾のクラスメイトたちは、すこぶるノリが良かった。
* * *
ガラスの破片を処理して、一息ついたところで、高尾が意気揚々と猫捕獲組に参戦していった。緑間は当面、教室で待機だ。ラッキーアイテムが手元にないことが心許なく、また周囲にどういった影響を与えるかわからないためである。まだ緑間以外のところで直接被害が及んでいないことだけが救いだった。
緑間のラッキーアイテムが逃げたことで、既に本鈴が鳴ったというのに校内は全体的に浮き足立ちざわついている。現在、秀徳高校特別警戒発令により、五時間目の授業へ制限が決定した。要するに、全体自習の措置が取られたわけである。
『影響のない範囲で協力できる生徒は、直ちに三毛猫の捜索に参加して下さい。また、くれぐれも気をつけて行動を起こして下さい』
教職員との協議により、先ほど生徒会主導による校内放送が流れた。大げさだといわれるかもしれないが、何せ過去に痛い目をみているのだ。正直何が起こるかは誰にもわからない。警戒は怠らないほうがいい。
とにかくないよりはマシと、クラスメイトたちが手当たり次第三毛猫グッズを緑間の元に召集してきてくれた。結果、お供えのように集まった猫グッズに囲まれて、緑間は精神的ダメージを負っていた。
「おーい、緑間君、大丈夫?」
「……吾妻。これが大丈夫に見えるのか」
「あっはは、災難ねぇ。おは朝、やっぱり凄いわー」
指示を出し終え様子を窺いに来た吾妻に、緑間は憔悴した面持ちでため息を付いた。現状を笑い飛ばしてくれるだけ、ありがたいとは思うのだが。
緑間とて、周囲を巻き込むことは本位ではない。自分の体質が恨めしくなる。帝光中の頃は、赤司がラッキーアイテムの世話とフォローをしてくれていたこともあって、ここまで大事に発展することはさしてなかった。赤司の力がどれだけ大きかったか、とみに実感する。
「今回は嵐にならないといいわね」
「呑気でいられるお前は、本当に豪胆だな」
「深刻に考えすぎたってどうにもならないでしょ」
外の天気を眺めつつ、吾妻は首を竦めた。半年ほど前のことだろうか。蟹座は最下位。そして緑間が、正規のラッキーアイテムをすぐに入手できなかった時のことだ。時期外れの急な嵐が訪れ、激しい暴風雨と雷、その上停電で一時騒然となった。しかも、何故か秀徳高校周辺のみ。他の地域は穏やかな天候に恵まれていて、何が原因で異常気象に見舞われたのかは推して知るべしだろう。
「緑間副会長、ラッキーアイテム捕獲しました! こいつですか!」
嬉しそうな声と共に教室の扉が開く。駆け込んできたのは、三毛猫を携えた一年生だった。
いつから通例になったのか。緊急時に手柄を立てると、緑間からご褒美が出るようになった。そのため、躍起になってラッキーアイテム探す生徒が殆どだ。ご褒美の発端は、目の前にいる生徒会長だった気がする。なお、報酬は緑間のノート、もしくはおしるこである。圧倒的にノートが人気だった。
「そいつは毛の色が違うのだよ。ラッキーアイテムは、白・茶色・こげ茶の三毛猫だ」
一年生が抱えていたのは縞三毛で、緑間の三毛猫はキジ三毛である。どうも情報が錯綜している。今日に限って、そこかしこを三毛猫が闊歩しているらしく、無造作に緑間のところへ誤った猫が持ち込まれてくる。高尾がいないので、自らそれらを判別しなければならない。せめて、オスかどうかくらいの確認をしてくれと、声を大にして言いたい。さっきから苦手な猫にまみれすぎていて、緑間のSAN値はガリガリと削られまくりだ。
「さて。困った猫ちゃんは、一体どこに行っちゃったのかしらねぇ」
持ち込まれた猫をさりげなく遠ざけてくれた吾妻は、外から聞こえる喧騒に耳を傾けた。ガラスの消失した窓からは、あちこちから猫を捜索している声が届く。まだ目的の三毛が見つかった気配はない。
消耗している緑間は、珍しく机にぐったりと身を預けながら鼻を鳴らした。
「フン……。きっと高尾がどうにかするのだよ」
緑間の言葉に軽く目を瞠った吾妻は、額を押さえてやれやれと首を振った。
「あんたたちって本当……」
「どうかしたか?」
「何でもない。ご馳走様ってことよ」
「は?」
苦笑を見せる吾妻に、緑間はわけもわからず眉を顰める。
吾妻は緑間からの不審を誤魔化すように肩を竦めて、綺麗にガラスが取り除かれた窓から外へと視線を流した。校庭では、猫捜索隊の生徒たちが、躍起になってあちこちへと声をかけている。遊び半分の者や、サボり目的の者、受験の息抜き代わりをしている三年生なども見受けられたが、概ね協力的だ。
ターゲットは、野良猫だから当然名前はない。「猫ー!」と呼ばれたところで、まさか自分のこととは思わない猫は、大人しく姿を見せはしないだろう。難航するのも無理はない。
たかが猫一匹でこの状態。本当に緑間真太郎という男は、退屈させない人間だ。
吾妻が遠目から校庭の様子を眺めていると、ふと一角がざわついていることに気付いた。目を凝らせば、そこには良く知った顔が騒ぎの中心にいる。
「……ねぇ、どうしてあんなことになっているんだと思う?」
吾妻が校庭へと顎をしゃくる。身体を起こし、彼女の視線の先を見やれば、隅に植えられている大木に高尾が登っているところだった。
「アイツは何をやっているのだよ……」
呆れ気味にため息を付いた緑間であったが、はっとなって、慌てて時間を確認する。高尾が猫を捜索し始めて、かれこれ一時間が経過しようとしている。緑間は、ちっと舌打ちした。
「……マズいかもしれん」
「何が?」
「高尾だ」
集められた三毛猫グッズをぐるりと見渡し、一番サイズの大きかったクッションとキャリーを手に取って、緑間は腰を浮かせた。
「ちょっと! どこに行くつもりよ、緑間君!?」
「あのバカのところなのだよ」
「高尾のところ? 無茶言わないでよ!」
勢いのままに突然出奔しそうな緑間を、吾妻は焦って引き止める。正規のラッキーアイテムを所持していたさっきですら、危ない目にあったばかりなのだ。気休め程度の代替物で、降りかかる不幸を防げるわけがない。ここから動くのは流石に危険すぎる。
「不測の事態には慣れている。それに、オレの人事をオレが尽くさないでどうする。アイテムがないのは……まぁ、どうにかなるのだよ」
吾妻の制止を振り切り、緑間は意を決して教室を出て行った。
「……もー! 本当、大概すぎるわ、あんたたち」
腰に手を当て、吾妻はがっくりと肩を落とし呟いた。直後に響いた悲鳴は、聞こえなかったことにしよう。
さしあたり彼女にできることといえば、緑間が行く先々で起こす被害の収拾を図ることくらいだった。
* * *
鷹の目が猫の姿を捉えた。しかし駆け寄って捕まえてみれば、微妙に三毛の模様が異なる。加えてメスだ。高尾は徒労にため息を付いた。
どういうわけか今日に限って、校内に三毛猫がどこからともなく忍び込んできている。おかげで、かく乱されてしまい、目的の猫が発見しづらいことこの上ない。
「くっそ、おは朝めぇ!!」
わかってはいたけれど、緑間の最下位はこんなところにまで影響するのか。まさか罪もない猫に当たるわけにもいかず、高尾はやり場のないモヤモヤを晴らすために毒づいた。
「おー、いたいた。高尾!」
「おっす。お疲れ。どした?」
猫を外へと逃がしていると、クラスメイトが手を振りながら小走りに近付いてくる。取り乱した様子に高尾は首を傾げた。
「校庭の木の上にそれっぽい猫を見つけたんだけどさ、どうも木から降りられなくなってるんだよ。もしかしてそいつかな?」
「おいおい、猫ちゃんよー……」
全く手間をかけさせてくれる。高尾は額に手を当てて思わず空を仰いだ。真っ青に染まった空は、今のところ雲ひとつない天気。今回は、天候に影響する類の運勢ではないということだろうか。しかし、いつ暗雲を呼ばれるかわからない。行動は早いに越したことはない。
「ヨッシャー、行くぜ! 悪ィな。校庭の木って、もしかしてあの一番デカい木?」
「そうそう、それ。全く、緑間が最下位の時はオレらが頑張んなきゃだな」
「真ちゃんのために、みんなありがとなー」
「ま、オレらの身も危ないわけですし。つーか、お前が言うのかよ、高尾」
「やっだー! 素直になれない真ちゃんの心を代弁しただけですぅ! 口に出さないだけで、あいつめっちゃ感謝してんだから」
「本当に、お前ら仲良いのな」
「真ちゃんはあげませんぜー!」
「いらねーっつの! おい、目が笑ってねーよ、高尾!」
校庭へと走りながら軽口を叩き合う。同行の彼も運動部だったので、目的の場所に到着するまでさして時間はかからなかった。
校庭脇の木の周辺には、高尾のクラスメイト数人が集まっていた。上を見上げながら、どうにか猫を下ろせないかと画策していたようだった。
「あれなんだけど……」
少しあがった呼吸を整えながら、指差された場所を注視する。背の高い木の中ごろよりもやや上の方、細めの枝にしがみついて、猫がふるふると震えていた。登りすぎてしまったのだろう。降りることも動くこともできなくなってしまったみたいで、固まって丸まっている。
下からだと良く見えないため、鷹の目を発動させて確認をする。それは確かに高尾が朝捕まえてきたオスの三毛猫だった。
「あー……あれだわ。もー無慈悲!」
「マジか。おは朝ァ!」
その場にいた生徒たちが一斉に頭を抱えた。そうそう簡単には捕まらないだろうとは、おは朝慣れした誰もが予測はしていたけれども、この展開は難易度が高い。校外に脱走していなかっただけマシだと思えば良いのか。
高尾はやれやれと首を竦めて、幹に手を付き太さを確認する。ざらついた木肌に、どうにか行けそうかとあたりをつけた。最初に足をかけられそうな枝までが些か遠い。ついでに鷹の目で予めルートとなる足場を目算しておく。
「仕方ねーな。ちょっと登ってくるわ」
「へ? マジで?」
「しょーがないっしょー。あいつがいないと、真ちゃん死んじゃいそうだし!」
「まあな……。くれぐれも気をつけろよ」
「平気平気。危ねーからちょっと木から離れてて。オレの華麗な木登り姿、とくとご覧あれ! なーんてな!」
「高尾は無駄にハイスペックだな!」
などとクラスメイトたちに大口を叩いたものの、スマートからは程遠い姿で木にしがみついて、高尾は上へとよじ登っていく。まずは、足場となる枝まで自力で登らなければならない。ズルズルと滑りそうになる足を踏ん張って、どうにか直近の枝まで身体を押し上げた。
「いやー、この歳で木登りする羽目になるとはねっと!」
はーっと高尾は重い息を吐く。普段鍛えているとはいえ、重力に反するのはそれなりにしんどい。どこぞの蝉厨ならば、木登りなど容易いのだろうか。緑間から噂だけは聞いている彼が木にへばりついている姿を想像して、思わず笑いが込み上げた。
地上より幾分近くなった猫へ、チチチと舌を鳴らしながら手を伸ばしてみる。が、猫は身じろぎもしない。完璧に自分ではどうにもならなくなっている。
「動けなくなるなら、そんな上まで頑張るなよなー!」
文句を零しながら、高尾は枝に手をかけた。鷹の目を駆使し、登りやすそうな枝を選別しつつ、ゆっくり着実に猫に近付いていく。上に行くにつれ、枝が細くなるのが難儀だ。慎重に。枝の強度を確認してから、高尾は焦らず黙々とクライミングしていく。
漸く、猫を射程圏内に捉える。足場も問題ない。幹に手を付いてバランスを確保し、爪先立ちで腕を伸ばす。暴れないでくれよと祈りながら、猫の胴へと手を入れてさっと掬い上げた。流石に猫も恐怖心の方が勝ったのか、爪による抵抗もなくあっさり枝から離れた。
「おっし!」
猫を胸に抱きこんで、しっかと捕獲する。背中を幹に預けると、ほっとため息を付いた。
「もー……今度は大人しくしてるんだぜー!」
言い聞かせながら、猫を眼前まで掲げる。互いの鼻筋同士を合わせて、高尾はうりゃうりゃと猫を撫でやった。猫は申し訳なさそうに、ミャアと一声鳴いた。
「高尾すげー!」
「まーかせて!」
無事高尾がミッションを遂げたことで、どっと歓声が沸いた。パフォーマンスとして、猫を見せながら高尾はサムズアップを返す。
「さて、問題はこっからなんだよなあ……」
下を眺めながら、高尾は乾いた笑みを浮かべた。
そこまで高くはないものの、猫がいるため片手が使えなくなる。木登りは、登るよりも降りる方が難しい。難易度は格段に上がる。行きより更に慎重に。高尾は緊張に胸を高鳴らせた。鷹の目をフル活用して、死角になる位置まで丁寧に確認しながら、危なげなく手と足を枝へと置いていく。
「あ……?」
が、あと少しというところで、突然ぐらりと高尾の視界が揺れた。ヤバい。鷹の目を使いすぎた。そう理解した時には既に遅く。ガンッと激しい頭痛に襲われたかと思うと、広かったはずの視野が急に狭まった。
その一瞬が、命取りになる。
地上まであともう少しというところで目算を誤り、枝から高尾の足がずり落ちた。
「……お、わっ!?」
虚空を掻き、近場の枝に手を伸ばすも僅かに届かない。バランスを崩した高尾の姿に、きゃあと下から悲鳴が聞こえた。
(うわ、しくった! せめてこいつだけでも……!)
重力に引かれて、落ちるしかない身体を丸める。落下距離はそこまでではない。多分、大怪我にまでは至らないだろうと予測する。高尾は猫を守るようにして、来るべき痛みに備え目をぎゅうと瞑った。
背中から全身に衝撃が広がる。歯を食いしばっていたが、呼吸が一瞬詰まる。勢いのまま、ごろんと高尾は転がった。
(あ、れ……?)
けれども、想像していたよりもダメージはない。しかも何だか暖かくて柔らかい。
――暖かい? 柔らかい?
違和感を覚えて、高尾はそろそろと目を開ける。木々の緑の合間から差し込む木漏れ日が、ちらちらと眩しい。
今の鷹の目には、まだ些か毒だった光量に高尾が目を眇めていると、背中から呻き声が聞こえた。反射的に首を背後へと巡らせれば、見慣れた緑色が視界に映る。高尾は息を呑んだ。
「うおっ……真ちゃん!?」
「ぐ……」
高尾は血相を変えた。腹筋を駆使し、がばっと上半身を起こす。何故か共に倒れこんでいた緑間は、眉間にきつく皺を寄せて高尾を睨み付けている。
「……え、何で? え?」
「重いのだよ、さっさと退け……!」
「いやいやいや、どうして真ちゃんがオレの下敷きになってんだよ!?」
現状が把握できず、混乱気味に叫ぶ。ラッキーアイテムのない緑間は、不運に巻き込まれる可能性が高すぎて、教室で待機しているはずだ。それなのに何故こんなところにいるのか。不用意が過ぎるだろう。一体何のために、高尾を始めみんなが必死に緑間のラッキーアイテムを探しているか、わかっているのか。緑間の我儘には慣れているけれども、流石に身勝手すぎやしないかと、沸々と怒りが湧いてきた。
とにかく体勢を立て直さなければと、高尾は猫を逃がさないよう注意しつつ緑間の上から退いた。打った箇所がじくじくと痛む。きっと痣になっているだろう。高尾がこれなのだから、受け止めた緑間はもっと酷いのではなかろうか。無茶をしすぎだ。
高尾が動いたことで、丁度二人の間に挟まれていた物がころんと転がり落ちた。見れば、三毛猫の絵が描かれたクッションだった。もしかしてこれがあったおかげで、衝撃が多少なりとも和らいだのかもしれない。そういえば今日のさそり座のラッキーアイテムがこれだったはずだ。緑間がそれを意識して持ってきたかどうかは定かではないが、結果として良い方向に働いたのは間違いない。
緑間が制服を叩きながら、やれやれと身を起こす。彼が随分と草臥れた姿になっていることに気付いた。途端に、ぷつんと高尾の中の糸が切れ爆発した。
「あのさあ、真ちゃんてば何考えてんの!? ラッキーアイテムないってのにふらふらして、一人でこんなところまできてさあ。危ないってわかってんだろ!? しかも、何その格好。あーもー! 制服濡れてるじゃん!?」
緑間は雨にでも打たれたかのように、全身が濡れていた。髪の毛はぺたりと張り付き、未だ小さく雫を零している。そんな中地面を転がれば、制服も薄汚れてしまうに決まっている。
物凄い剣幕で怒りをぶつけてくる高尾に目を丸くしながら、むっとした緑間は不服げに眼鏡のブリッジを押し上げズレを直した。
「お前の方こそ、木から落ちた間抜けの癖に何を言っている」
「にゃにおぅ!」
「全く……どうせこんなこったろうと思ったのだよ」
呆れ混じりに、フンと緑間は鼻を鳴らす。
「鷹の目を使いすぎたのではないか?」
「うっ……」
緑間の指摘に、ぎくりと高尾が身を強張らせる。
「はぁ、情けないのだよ。学校全体など、体育館と違ってただでさえ広範囲なんだ。そんな状態で鷹の目を長時間使い続けて、木の上にいてみろ。どうなるかなんて一目瞭然なのだよ。もしやと思って来てみたら、案の定このザマなのだよ」
「……へ?」
高尾は目をぱちりと瞬かせた。緑間が慧眼すぎて、ぐうの音もでない。
体育館程度の範囲でも、長時間稼動させれば鷹の目はオーバーフローを起こす。何度か無茶をして、部活の最中に倒れた高尾を知っているから、緑間も経験的にわかっていたのだろう。
猫を探すという目的ばかり先行してしまい、すっかり反動のことが頭から抜け落ちてしまった。面目ないことこの上ない。
「……もしかして、オレのこと心配してわざわざここまで?」
あっけに取られた高尾がポツリと零せば、緑間はあからさまに動揺を見せ、憤然とする。
「ばっ……! 勘違いするな。お前のためではないのだよ。折角のラッキーアイテムを取り逃がしては、また面倒なことになるからなのだよ!」
「あー……」
語るに落ちるとはまさにこのことだ。照れ隠しにも程がある。相変わらずのツンデレに高尾は頬を掻いて、曖昧な笑みを浮かべた。何のことはない。高尾の体に掛かる負担を心配して、ラッキーアイテムがないことを承知の上で、教室を飛び出してきてくれたというのか。
酷い勘違いだ。思わずふふっと声が漏れる。
「……そっか。ごめんな、真ちゃん」
そう呟いたと同時に、また頭痛に襲われる。一瞬だったさっきの比ではない断続的な痛みに、高尾は眉を顰めた。ぐらりと力なく傾いだ肩を、咄嗟に緑間が支えた。
「高尾!?」
額を押さえて、高尾はうえーと唸った。頭痛が徐々に鈍い痛みを広げていく。ついには目の奥までチカチカと明滅し始めるわ、熱を持つわ散々だ。吐き気がないだけ今回はマシか。耐え切れず、高尾は瞼を閉じ深呼吸をする。何度も味わった、慣れた感覚。鷹の目を酷使したことによる反動が、完全にやってきた。
「悪ィ……ちょ、無理ぽ、い……」
できることなら自らの手で、猫を緑間に渡してあげたかったのに。でもまあ後はきっと、緑間やクラスメイトがどうにかしてくれるだろう。高尾はそのまま身体を緑間に委ね、意識を手放した。
「おい、高尾? たっ、高尾……! 大丈夫か!? ……って、ちょっと待て! 倒れるのは、せめてこいつをどうにかしてからにするのだよぉお!!」
完全に意識を失ってしまった高尾を僅かに揺らしながら、緑間はうろたえる。
緑間と高尾の合間に挟まれて、高尾にしっかりと抱かれ制服にしがみついたままでいた猫が、窮屈そうにニャーと鳴いた。高尾の身体を上半身で支えているため、逃れることもできず、緑間は猫と接触してしまう。喉が、ひっと引き攣った音を立てる。身体を震わせた後、緑間は銅像のように硬直した。
周囲で二人の様子を固唾を呑んで見守っていたクラスメイトたちは、立て続けに起こる一大事に気が休まる暇もない。あたふたと二人の下へと駆け寄った。
「全く! 毎回毎回、お前らは人騒がせすぎだろ!」
最後の最後で決まらないチャリアコンビに、クラスメイトたちは苦笑するしかない。もー何やってんだよーとぼやきながらも、慣れた手つきで緑間を救出し、高尾を保健室へと運んでやる。
こうして無事高尾によって保護された騒動の元凶たる三毛猫は、大事にキャリーへと収容され緑間の手元へと戻ってきたのだった。
* * *
オレンジ色のジャージに着替え、身綺麗になってやっと落ち着く。全身濡れて泥だらけにしまったので、シャワーまで浴びる羽目になった。部活用に持ってきた着替えがフル稼働だ。制服もクリーニングに出さないといけない。
吾妻の静止を振り切って火の如く飛び出したものの、正規のラッキーアイテムを持たない緑間に、不運が降り注がないわけがなく。廊下の角で、バケツに水を持った同級生にぶつかり水を被る。水道の脇を通れば、何故かいきなり故障が発生し、止まらない水をどうにかしようと足掻き、焦って蛇口を押さえた後輩からの水鉄砲を食らう。終いには、階段に零れていた水溜りに気付かず、滑って落下する。とまあ、水難の相でも出ているのかというくらい水に縁がなかった。それ一つ一つは大したことがない不運でも、連続して積み重なれば心が折れそうになる。全く、酷い目にあったものだ。
久しぶりに規模の大きな災難だったせいか、流石の緑間も倦怠感にため息を付いた。
からりと保健室のドアを引く。室内を見回せば、養護教諭は席を外しているようだった。
先ほども嗅いだ消毒液の匂いが、緑間の鼻をついた。緑間自身も打ち身のせいで、保健室には世話になったばかりだ。部屋の匂いと、自らに処置された湿布の匂いとが混ざっている気がする。
仕切りのカーテンを開き、設えられたベッドを覗く。そこには、高尾が横たわって眠っていた。目を覆っていた温タオルは、養護教諭の手によってか外されている。運ばれた当初よりも随分表情が落ち着いてきたので、緑間はほっと胸を撫で下ろした。
波乱の五時間目がどうにか終わり、通常に戻った授業を受ければ、あっという間に放課後だ。高尾はその間に復帰できず、保健室の住人になっていた。
傍にあった簡易椅子を手に、緑間はベッドの傍らに腰を据えた。手に持っていた猫のキャリーは足元に置く。
高尾は、すよすよと寝ていて、目を醒ます気配はない。鷹の目のオーバーフローは相当負荷がかかるみたいで、酷い時は頭痛から嘔吐まで催してしまう程だと聞く。
少しだけ青白い高尾の顔。緑間はそっと手を伸ばした。輪郭をなぞるように頬を撫でてから、彼の瞼をゆっくりと掌で覆う。ぴくり、と瞼が痙攣するのが伝わる。そろそろ眠りが浅くなっているのだろう。
あと僅かでいい。起きてくれるなと、願いながら。
「冷や冷やさせるな、この馬鹿」
高尾が落下した地点は、地上からそこまで高くなかったとはいえ、一歩間違えれば大怪我を負っていたかもしれない。それを想像してしまい、ついつい目を伏せる。緑間の長く縁取られた睫毛が、か細く震えて影を落とす。
杞憂であればそれで良しと自分の不運を省みずに走ったが、間に合ってよかった。掌から伝わってくる温い体温に、緑間ははぁと肺に残っている息まで全て吐き出した。
「……だが、ヒーローっぽかったのだよ」
緑間は目元を和らげて、穏やかに微笑んだ。ちょっと間抜けだったがなと付け加えて。
「ん……」
その言葉に反応したわけではないだろうが、高尾が小さく身じろぎする。緑間はさっと掌を外して、そ知らぬふりで高尾の覚醒を待った。
「いつまで寝ている。もう放課後だぞ、高尾」
「……真ちゃん?」
目覚めたばかりの高尾は、まだ寝ぼけているのだろう。ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、緑間のことをぼんやりと見つめている。多分、状況を掴めていないのもあるのかもしれない。
「調子はどうだ? 倒れたことは覚えているか?」
「ああ、そっか、そうだった。悪ィな。……大分楽になったわ」
緑間が教えてやれば、高尾はやっとベッドに寝かされている状態を思い出したのか一つ頷いた。若干情けなそうに眉を下げて、緑間へと苦笑を見せた。目をこすり、大きく欠伸を一つすると、漸く頭が稼動してきたようだった。
高尾はもそもそと上半身を起こして、んーと背伸びをする。強かに打ちつけた箇所が痛んだのか、高尾は腰の辺りをさすっている。血色は随分良くなったけれど、やはり些か具合が悪そうだ。
「まだ顔が青いのだよ。今日は大事を取って、部活はやめておいたほうがいいのではないか?」
「はっ、冗談。つーか、誰が真ちゃんのラッキーアイテム持ってやるっつーんだよ」
鼻を鳴らして、高尾が不敵に口角を上げた。その瞳には、絶対に帰ったりしないという強い意志が窺える。相変わらず変なところで頑固だ。こういう時の高尾が絶対に譲らないことを知っているので、緑間は内心嘆息しながらも、仕方ない体を装って眼鏡を押し上げ憎まれ口を叩いた。
「そうだな。チャリアカーも運転してもらわねばならんしな」
「ばっかやろう、余裕もここまでだぜ? 今日こそはぜってー勝つ!」
「……といい続けて、一年半は経ったな」
「ぐぬぬ……」
大口を叩いたものの、未だ連敗記録を塗り替え続けている高尾は、悔しそうに歯噛みした。
「問題がないのであれば行くぞ。荷物がまだ教室なのだよ」
「なーにー、真ちゃん。高尾ちゃんのことが心配で、一目散に様子見に来てくれたわけ?」
「気色の悪いことを言うな。単に荷物が多かっただけなのだよ、勘違いするな」
ぶらぶらと両足をばたつかせながら、高尾が揶揄する。のんびり上履きをつっかける高尾に構わず、キャリーを手に緑間は無慈悲に先を行く。後から「置いてくなって!」と高尾が息せき切って追いかけてきた。
「ん? 真ちゃん、何か機嫌いい?」
「別に、いつもと変わりない。お前の目は節穴だな。ほら、さっさと部活にいくのだよ!」
「へいへい。んじゃ、キャリー貸せって」
「む。オレが持っていても構わんのだよ」
ああは言ったものの、体調不良の人間に荷物を持たせるほど緑間とて薄情ではない。それにどうせ部活が始まれば、キャリーはステージの上に置くのだ。
しかし、緑間の右手から鮮やかにキャリーを奪った高尾は、にかりと笑った。
「こんくらいヘーキだっつの。それに、今日はずっとこれ持って真ちゃんの隣にいるって約束したのに、守れなかったからさ。オレに持たせてよ?」
そういえば、そんなことを朝に話をしていた。騒動ですっかり頭から抜けていた緑間は、きょとんと目を瞬かせた後、小さく苦笑した。よもやそんなことを気にしていたのか。
「……見上げた下僕根性なのだよ」
「せめて律儀だって言ってくんねーかな!」
高尾はぶーと頬を膨らませながら、緑間の横を追い抜いていく。暫く前を歩いたかと思えば、くるりと反転し片手を広げて、楽しげな様子で先ほどとは逆に早くと緑間を促した。