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緑間さんと宮地さんの帰り道のお話

03 23 *2013 | text

浮いていることと可愛げのないことを自覚しているせいで色々が抜け落ちている緑間♀さんと、そんな緑間さんに何となく振り回される宮地さんのお話です。緑間くんが女体化していますのでご注意ください。



続き




 ぱさ、と憎らしいほど綺麗にボールがゴールへ吸い込まれていく。
 ポニーテールにまとめられた新緑色の髪がふわりと舞うのを、宮地は視界の隅にぼんやりと捉えた。




 緑間さんと宮地さんの帰り道のお話




 つい先ほどまで熱気であれだけ活気付いていた秀徳高校の体育館も、部活が終わってしまえば案外静かなものだ。キュ、と宮地のバッシュが立てるスキール音とボールの跳ねる音が館内に断続的に小さく響く。
 居残り練習をするのは決まっていつも三人だったが、今日は珍しく一人欠けていた。煩いのが一人いないだけで、よりいっそう体育館には静謐な空気が満ちた。
 宮地は、黙々とシュートを打ち続ける少女に声をかけた。
「おい、緑間。高尾はどうした?」
「高尾なら帰りました。風邪で臥せっている妹さんの面倒をみなくてはならないそうで、居残り練習はパスすると」
 一瞬シュートを打つ手を止め、たんたんとボールをバウンドさせながら緑間が応えた。必要最低限の言葉が紡がれ終わると同時に、緑間の手からボールが離れる。高い打点のシュートはリングに触れることなく長い滞空時間を経てゴールへと突き刺さった。
 さも当然であるかの如く、緑間はシュートが決まる前に次のボールをハンドリングしている。リズミカルなテンポで、飽きもせずに次々ボールを放っていく。
(相変わらずかわいくねー……)
 宮地はちっと舌打ちを一つしてから、ばんとボールを床に打ちつけて自主練習に戻った。
 ――緑間真。
 宮地の目の前でシュート練習をしている少女は、中学時代にキセキの世代と呼ばれた天才の一人だ。女ながらにして男顔負けの3Pを打つシューターであり、現秀徳高校女バスのエースである。
 緑間が秀徳に入学した際、校内はたいそう賑わった。なにぶん緑間は人目を引く端麗な容姿をしている上に、スポーツ推薦とはいえ入学式当日に新入生代表として見事な挨拶を行ったからである。
 眉目秀麗、成績優秀、スポーツ万能と三拍子そろった所謂高嶺の花の緑間であったが、しかし蓋を開けてみればその性格が、全てを無に帰していた。
 緑間は文句なしの美人であるものの、無愛想で非常にとっつき辛い性格をしていた。周囲には目もくれず、ひたすら我が道を行く。殊更彼女はおは朝占いに執心していた。毎日おは朝で指示される大小様々、まともなものからおかしなものまでラッキーアイテムを手に校内を闊歩する様はもはや秀徳名物である。
 天は緑間に二物も三物も与えたが、肝心なところでおかしな方向に捻じ曲がってしまったらしい。
 よく言えばマイペースなのだろうが、悪く言えば唯我独尊。
 故に、入学当初から緑間は色々な意味で学校中から注目を浴びると同時に浮いていた。
 もちろん部活動でも緑間の態度が変わるわけはなく、長い間揉めに揉めた。
 けれども高尾のフォローと、頑なだった緑間自身の敗北による変化と、そして口だけではない彼女の実力に裏打ちされた並々ならぬ練習態度が、バスケ部全体の雰囲気をゆっくりとだが融和し、緑間本人も溶け込んでいくことができた。
 ただ天才という言葉に驕ることなく、緑間は入学してからずっと可能な限り居残り練習を続けている。我を張るに見合う人一倍の努力を彼女はしていた。
 それだけは、一緒に居残って練習を見てきた宮地も認めている。
 悔しいけれども、彼女の左手が生み出すシュートは見惚れるほどに美しい。呆れるくらい不器用で真っ直ぐな彼女をそのまま映したかのような3Pは、鋭利な放物線を描いてゴールを貫いた。
 暫く無言のまま、宮地と緑間は互いに干渉することなく練習を続けた。高尾という会話の起爆剤がいなければ、こんなものである。
 ふと時計を見れば、そろそろ部活の延長期限の時間が迫っていた。随分集中していたようだ。宮地は頃合かと、ドリブルからのダンクを決めて、シャツの袖で無造作に流れる汗を拭うと大きく息をついた。
「緑間、あとノルマは何本だ?」
「三本なのだよ」
「よし、それ終わったらモップな」
「わかりました」
 そのまま緑間は難なく三本を決め、ふぅと小さく吐息を漏らし手の甲で軽く額の汗を押さえてから、ゴール下に散らばっているボールを拾い集める。その間に宮地がモップを二本取ってくると、宮地の目の前にボールが一つ転がっていた。
「緑間」
 宮地の声に反応して、ボールを拾おうと腰を屈めた緑間が顔を上げる。と同時に、宮地がパスを出すと、緑間はたやすくそれを受け取って、「ありがとうございます」と礼を述べぽいと籠に放った。籠へのシュートも緑間は外さなかった。
 普段ならばモップをかけながら高尾が緑間にちょっかいを出したりふざけたりするため、宮地が真面目にやれと声を張り上げ、時間が無駄にかかっていたりするのだが、二人だとさくさく掃除が終わる。高尾がいる時の悪ノリも嫌いではないが、効率を考えるとこちらのほうが楽でいいなどと考えたのはここだけの話だ。
 綺麗になった床に満足すると、倉庫にボール籠とモップを戻し、電気を消して体育館を施錠した。体育館の鍵と部室の鍵は、帰り際に守衛室へ預ける。いつも通りの手順だ。
「では、お疲れ様でした」
 普段の流れのままに頭を下げて緑間が挨拶を口にするので、宮地はぴくりと眉を跳ね上げた。
「は? 何一人で帰ろうとしてんの、お前」
「え?」
 宮地の言葉の意味が伝わらなかったのか、緑間は首を傾げた。
「高尾、いねーんだろ?」
「はい、だから一人で帰ります」
「アホか。木村いたらパイナップル投げつけてるわ」
 宮地が盛大にため息をつくが、緑間はやっぱりわかっていない。
「暗いんだから送ってってやるって言ってんだよ、そんくらい分かれよ……」
 緑間がきょとんと目を瞬かせた。
「必要性を感じませんが」
 真剣にそう思っているのだろう。先ほどから緑間の表情は怪訝そうだ。女であるという意識と危機感がないのだろうか。今度は宮地が呆れる番だった。
「あーもー面倒くせぇ。いいっつってんだからいいんだよ。先輩命令だ。送られろ」
「……それは横暴ではないですか」
「横暴でも何でもいいんだよ。用意が終わったら女バスの部室の前に行くから、もし俺がいなくても一人で勝手に帰るんじゃねーぞ?いいな」
 びしりと言い含めると、宮地はふんと鼻を鳴らして、体育館の鍵を緑間から奪いさっさと部室へと戻っていく。
 置いていかれた緑間は、終始困惑したようにしきりに首を捻っていた。




 身支度を整えて女バスの部室に行くと、緑間はまだのようだった。部室の電気がついている。
 宮地が壁に寄りかかって携帯をチェックしながら待っていると、やがて部室の明かりが消え、緑間が部室から姿を現した。
「お待たせしてすみません」
「女は支度に時間かかるだろ、気にすんな」
 ぱちんと携帯を閉じて鞄にしまいながら、部室の戸締りをする緑間をぼんやりと目で追う。慌てて出てきたのだろうか。幾分髪の毛がもつれているのが気になった。そのくせ左手のテーピングは乱れなく巻かれているのだからバスケ馬鹿だ。
「おら、さっさと帰るぞ」
「はい」
 歩き出した宮地を緑間が小走りで追いかけてくる。横に並ぶと緑間がほっと息をついた。
(……こいつこんなにちっちゃかったんだっけ?)
 ちら、と視線を流すと、隣を歩く少女は黙っていれば可憐だ。宮地が大きいのもあるが、こうやって改めて意識すると、女子の平均身長を上回るものの、宮地にとってはそれでもゆうに一回りは小さい。そして緑間はやけに細くて薄かった。硬質な印象を与える雰囲気は、まるで折れてしまいそうに儚い。外見に反して性格は図太いくせに生意気だ。
 基本的に宮地は部活と居残り練習での緑間しか知らない。そもそも一年と三年が顔を合わせる機会はさしてないし、委員会が一緒のわけでもない。高尾がいつも傍にいるため、下校が一緒になることもほとんどないので、彼女が単独で隣にいることが何となく新鮮だった。
 顔にかかった髪をさらりと掻き揚げる緑間の仕草にやけにどきりとして、宮地はそわそわと目を逸らす。自然と逸る歩調を抑えスピードを緩めて、気づかれないよう緑間のペースに合わせた。
 守衛室に寄って鍵を預けて、宮地と緑間は秀徳高校の校門を後にする。
「はー、さみぃ」
 吐いた息が白に染まる。冬場の夜は更に冷え込みが増し、宮地は寒さにぶるりと身体を震わせた。さっきまであんなに動いていたので身体はそこそこ暖まっているはずだが、やはり寒いものは寒い。緑間も、マフラーに首を埋めて肩を竦めていた。
 この突き刺さるような寒さを身に感じると、ウィンターカップも間近だなと改めて実感する。
「そういえば今日は何本ノルマやったんだ?」
「おは朝占いでラッキーナンバーが7だったので70本ほど」
「ぶは。何、シュートノルマもおは朝で決めてんの、お前」
 緑間は「おは朝は絶対なのだよ」と言って真顔でこくりと頷くと、かちゃりと眼鏡のフレームを押し上げた。
 今日のラッキーアイテムであるアザラシのぬいぐるみは、緑間の胸に抱かれて可愛らしく収まっている。ただのぬいぐるみと思うなかれ、補正に効果があると、手に入れば可能な限り大きなものを背負ってでも持ってくるので、今日は随分大人しいほうだろう。
 そんな風に、ぽつぽつとバスケや部活絡みのことを中心に話をしていると、秀徳高校の最寄り駅に到着した。緑間の家の最寄駅を聞くと、宮地の利用する駅よりも三つほど前だった。
 電車で移動している最中も、往生際悪く緑間は宮地が送ることに難色を示した。
「やはり先輩が送る必要などないのだよ、私だって子供ではないのですから、一人で帰れます」
「はぁ!? いい加減にしろよ、お前。そんなに俺に送られるのが嫌か」
 車内ということもあって抑え気味の声で凄むが、緑間は意に介した様子もない。
「そういうわけではありません。だって、私を送ったら宮地先輩の帰宅が遅くなってしまうではないですか」
「へ?」
 今の宮地は相当おかしな顔をしていると思う。想定外の言葉にまじまじと緑間を凝視すると、居心地が悪かったのか彼女はぷいと顔を逸らした。
「だから……私を送っていったら、遠回りになってしまうでしょう? ただでさえこんな時間なんです」
 そこか。そこなのか。送迎の拒否は、自分より宮地を優先しての発言だったのか。まさかの不意打ちデレに、宮地は動揺した。
「たっ、高尾だって遠回りしてお前のこと送迎してるだろ!?」
「高尾は下僕だから構いません」
 しれっとした回答に、あれだけ尽くしに尽くしている高尾が不憫すぎて何となく泣けてきた。
「先輩は受験勉強だってあるでしょう。私のことは気にしなくていいのだよ」
「お前……ほんっとにいい加減にしろ……」
 緑間からの容赦ない追撃に、宮地は額を抱えた。きっと今自分の顔は赤くなっているに違いない。あーとかうーとかいいながら突然俯いてしまった宮地を、少し心配そうな面持ちで「大丈夫ですか?先輩」と緑間が気遣ってくる。やめてくれ。
 以前、高尾が「真ちゃんのデレは斜め方向から突然やってくるんでマジやばいっす」と真顔で言っていたのだが、今ならとてもよくわかる。
 部活をやっている時は我を通すくせに、何だこのギャップはと宮地は内心絶叫した。




 結局、押し通して緑間の家の最寄駅で降りたことに、彼女はどうにも不満そうだった。
「ちょっと遅くなったからって落ちる程度の受験勉強なんてしてねーし」
 外見から軽いと判断されがちだが、こう見えて宮地は頭がいい。常に首席をキープしている緑間ほどではないが、成績は上から数えたほうが早い。文武両道を掲げる秀徳高校では、うかつに成績を落とすと放課後の補習で部活の時間を削られることになるのだが、宮地はテスト期間中でさえも特別に練習する許可をもらえるほどだった。
 それを知っているからこそ、緑間は漸く宮地の言葉にしぶしぶといった体で納得した。
 改札から出ると、ひんやりとした空気が身体を通り抜けた。電車内が暖かかったせいで、いっそう風を冷たく感じる。
 くしゅんっと可愛くくしゃみをして、緑間がぶるりと身を震わせた。
「……あー、それよか腹減ったな。ちょっとコンビニ寄ってもいいか?」
「先輩、居残り練習始める前に何か食べてませんでしたか」
「あんなんで足りるわけねーだろ」
「高尾もそうですが、男子は沢山食べますね」
「俺らからすりゃ、お前は食わなすぎだ」
 丁度、道すがらコンビニがあったので、表に緑間を待たせて宮地はさっさと買い物を済ませる。店内から外を見やれば、緑間は空を見上げてはぁと白い息を零していた。
「ほれ」
「え?」
 緑間の目の前にぶっきらぼうに缶をかざす。
「おしるこ?」
 驚いた緑間の視線は、宮地の顔と缶しるこを行ったりきたりだ。
「奢ってやる」
「どういう風のふきまわしですか……」
 緑間が窺うように顔を顰める。なんだか酷く警戒されてしまい、宮地は笑顔で青筋を立てた。
「お前なぁ……轢くぞ。一人で食うのもあれだからって、わざわざ買ってやった先輩のありがたーい厚意を、そんな顔で無碍にすんじゃねー。そういう時は礼でも言って受け取っときゃいいんだよ」
「はぁ」
 無理遣り缶しるこを緑間に押し付け、宮地は自分用に購入した肉まんにかぶりつく。温かくて少し冷えた宮地の身体と胃にじんわりと染み渡った。
「ありがとうございます」
 言われた通り律儀に礼を述べて、おしるこ缶を両手で弄ぶ。暖を取っているのか、掌の上で何度か転がしてから、いただきますと呟いてプルタブを開けた。
「……甘いのだよ」
 おしるこに口をつけて、緑間が幸せそうにほぅとため息をついた。缶しるこの甘さと温かさにふっと肩の力が抜けたのか、一緒に口元も緩んだ。
 滅多にない緑間の表情に、宮地の鼓動が不意にはねる。
(こんな風に愛想よくしてりゃ、余計な軋轢を生まなくてすむだろうに)
 何だかどぎまぎしてしまい、それを誤魔化すようにして、ごみをゴミ箱に捨てた。
「行くぞ」
「あ。待って下さい」
 顎をしゃくり促して歩き始める。緑間は慌てて宮地の後に続いた。
 駅前のコンビニからひとしきり歩くと、閑静な住宅街といった感じの品の良さそうな家が立ち並ぶ。緑間の家は駅から徒歩で一五分程の場所にあるそうなのだが、足を進めるにつれて宮地の機嫌が急降下していった。
「おい」
「はい、何でしょうか」
 のんびりとおしるこをすすっていた緑間が、顔を上げる。若干の怒気を含んだ宮地の低い声音に、緑間は怪訝そうに小首を傾げた。
「お前さぁ、普段もここ通ってんの?」
「はい、そうですが」
 駅から角を二つ折れた道は、駅前の喧騒から離れ全く人気がない上に街灯も乏しい。かろうじて軒並みから漏れてくる明かりがあるものの、高めの塀に阻まれて十分とは言いがたい。要するに薄暗すぎる。また、近くにはお誂え向けに公園があった。
「こんな暗い道通って恐くねぇの?」
「全く。電車の時はいつも利用している道ですし、それにもうすぐ家なので別に」
 やはり不思議そうに、緑間は目を瞬かせた。
 わが道を行く少女は常識がいささかズレているとは思っていたが、こんなところまで欠如せずとも良かったのではないだろうか。
「やっぱり送って正解だったわ。お前女なんだから、もうちょっとこう危機感持てよ。あぶねーだろ。今まで何もなかったのが不思議なくらいだわ」
 盛大に嘆息した宮地に、緑間はまるで世間話のように平然と爆弾を投下した。
「ああ、そういえば……夏頃に一度だけ見せびらかす系の変態に出くわしました」
「はぁ!?」
 近所迷惑も顧みず、思わず目をむいてがなってしまった。けれども宮地の驚愕など気にもしないで、緑間は淡々と続ける。
「とはいっても、きっちり撃退してやったので大丈夫です」
「大丈夫とかそういう問題じゃねーだろ」
 段々と宮地の眉間のしわが深くなっていくのに、緑間は相変わらず空気を読まない。
「高尾にしてもそうですが……心配せずとも、私にはラッキーアイテムがありますから問題ありません」
 人事を尽くすのはそこじゃねーよと宮地は内心盛大に突っ込んだ。
 どうして話が通じないのか。何故自分は大丈夫などとのん気なことがいえるのか。ラッキーアイテムとて、補正が利かない時には散々酷い目に合っているだろうに。酷くイライラがこみ上げてくる。
 そんな宮地の心境を知って知らずか、緑間は悠然と眼鏡のブリッジを押し上げた。
「それに、私のような可愛げのない女を襲う男などそうそういないのだよ」
 ああ、本気で怒っている時って返って冷静になれるもんなんだなと、ぼんやり宮地は頭の片隅でそんなことを思った。
「きゃ……!?」
 互いの鞄と、緑間の持っていたおしるこ缶とぬいぐるみがそれぞれの手から落ちて、どさりと音を立てる。緑間の唇から漏れた悲鳴が、どこか遠くに聞こえた。
 左手を掴んで引き寄せたことにとっさに反応できなかったようで、緑間は何事かと宮地を見上げてくる。
 宮地は無言のまま緑間の両手首を拘束すると、そのままもつれるようにして近くの壁にとんっと彼女の身体を押し付けた。そこでやっと緑間が身をびくりと震わせる。
「せん…ぱい……?」
 突然の宮地の狼藉にあっけにとられた表情で、緑間が瞠目した。
「何、を……」
「あんまり男なめてんじゃねーよ、轢くぞ」
 確かに緑間は尊大だし、可愛げなど欠片もないけれども、どれだけ大丈夫だと本人が思っていたところで、いとも簡単に宮地に拘束されてしまう程度には華奢な女の子だ。
 それに、性格はどうあれ本人が自覚している以上にずっと緑間の容姿は綺麗で際立っている。
 宮地の眼前にあるのは端整な顔立ち。特徴的な長い睫毛は、少し怯えを孕んでふるりとか細く震える。僅かに開いた唇は紅を乗せた訳でもないのに紅く、リップクリームを塗っているせいなのか魅惑的に濡れている。一瞬抱き寄せた肢体は柔らかく、掴んだ手首は細くて、力をこめたら折れてしまいそうな錯覚に陥る。彼女の髪から上る香りが甘くて、その気もないのに宮地はくらりとなる自分を叱咤した。
 はっと我に返った緑間が暴れ始めたので、宮地はより体を密着させ、緑間の太ももを割って己の片足をそこに差し入れた。緑間の身体が固く強張る。
「甘ぇ」
「放して下さいっ!」
「放せって言われて放す馬鹿がどこにいんだよ」
 緑間は酷く狼狽しているのか、うろうろとせわしなく視線を彷徨わせながら押し返してくる。無駄な抵抗だ。
 腕を振ったところで力で敵うはずもなく。身をよじったところで抜け出せるはずもなく。足で蹴り上げようとしたところで、身体の距離が近すぎてろくに動かせるはずもなく。男が本気を出して押さえ付けて、女がどうこうできるわけがない。
「どうした? もうお仕舞いか?」
 虐めるように耳元で低く囁くと、弱いのかびくんと肩がはねた。ぶわっと緑間の頬に朱が差す。
 さすがにまずいと感じたのだろう。緑間は意を決して、気丈にもきっと宮地をにらみつけてきた。この土壇場の気の強さは結構嫌いではない。
「人が……っ」
「いないのは確認済み」
「さっ、叫びますよ!?」
 真っ向ぶつかってくる視線に応じて、宮地はにやりと口角を上げた。
「お前は叫ばねぇよ」
「く……」
 歯噛みするように呻く。宮地は笑みを収めると、じっと緑間を見つめた。視線が絡む。宮地の眼差しの強さに、思わず緑間が息を呑んだ。
 首を傾けて顔を寄せれば、どうしたらいいのか焦りに揺れる瞳が身構えるようにぎゅっと閉じられた。そんなの男を煽るだけなのにと宮地はやれやれとため息をつく。咄嗟に浮かんだ離れがたいという欲求を世迷言と一蹴して、緑間の拘束を解くと、すかさず彼女の前髪で覆われた額を人差し指でぴんっと弾いた。それなりに強く。
「いたっ!!」
「そこで大人しく目ェ閉じてんじゃねーぞ、ばーか」
「先…輩……?」
 弾かれた額を押さえながら、緑間が恐る恐る瞼を開いた。エメラルドを想起させる虹彩が、上目遣いで宮地を捉える。
「これでちったぁ危機感を持てって言った俺の言葉がわかったか。襲われてからじゃ遅ぇんだよ」
 両者の間にあった幾許の緊張感を霧散させるように緑間から距離を置くと、宮地は語気を強めて言い含めた。
 硬直したままの緑間は、ただ呆然と宮地を見つめている。息を殺していたせいで、足りない空気を求めるためにはくはくと開閉した唇から浅い呼吸の音が聞こえた。
 暫くして思考が繋がったのだろう。安堵したのか壁にもたれた腰がずる、と落ちる。眼鏡が僅かにずれて戸惑っている姿は、普段の高潔な彼女からは程遠く、場違いに愛らしかった。
 眼鏡の奥の睫毛がふるりと震える。ついでほろ、とその双眸から涙が零れ落ちた。
 今度は宮地がぎょっとなる番だった。
「緑間!?」
「かっ、勝手に出てくるのだよ……びっ、びっくり、して……」
 慌てて緑間が涙を見せまいと瞳をこする。が、緑間の意思に反して、涙はとめどなく頬を伝いしとどに濡らした。
 泣かせるつもりではなかった。ちょっと灸を据えてやろうという軽い気持ちが災いした。酷い罪悪感に襲われる。
「あーもー!」
 生憎ハンカチのような気の利いたものはすぐには出てこなかったので、宮地はぶっきらぼうに緑間の後頭部を引き寄せ、自分の胸に押し当てた。
「……やりすぎた。悪かった」
 さっきの今だからさすがにびくつかれるなり抵抗されるなりあるだろうと思ったのだが、緑間はゆるりと頭を横に何度も振るだけで、意外にも大人しく宮地の胸の中に収まった。




 暫く泣いている緑間を安心させるようにあやして、落ち着いた頃を見計らって改めて岐路に着く。緑間の言葉の通り、家は本当にすぐ傍だったようで、あっという間に到着してしまった。自分のせいだとはいえ、気まずい沈黙の時間が長く続かず、宮地は思わずほっとする。
「また明日な」
 伏せ気味の緑間からかろうじて窺える目許は微かに赤くなっていて、宮地の胸をちくりと苛んだ。
 別れの挨拶を告げ背中を向け歩き出したものの、すぐにくんっと後ろに引かれて軽くのけぞる。何事かと振り返れば、宮地の制服の裾を緑間が控えめに握っていた。
「緑間?」
「宮地先輩……あの……すみませんでした」
 ぱっと裾が緑間の手から離れ、そわそわと落ちつかなげに緑間が小さく頭を下げた。
「いや、俺の方こそ本当に悪かった」
「いいえ……先輩は私のことを考えてくれてのことでしょう?」
 気にしないでほしいと緑間が再び首を振ったので、少しだけ宮地の胸のつかえが取れた。
「それから、送って下さってありがとうございました」
 顔を上げた緑間は、はにかむように心なしか目を細めると礼を口にした。
 その微笑みに面食らった宮地は、衝動的に手を緑間の頭に伸ばした。大きな掌を彼女の頭に乗せると、滑らかな髪をぽんぽんと撫でて、宮地もにっと笑った。
「おう。じゃーな」
「先輩もお気をつけて」
 緑間の言葉を背中越しにひらりと手で返すと、宮地は元来た道をゆっくりと戻っていく。
 宮地を見送る緑間が触れられた頭に手をやって、照れくさそうに口元を歪めていたことには全く気づきもしなかった。




「あっ、宮地サン!おはようございまっす!」
 次の日の朝練。宮地が体育館に足を踏み入れると、先に来ていた高尾が宮地に声をかけた。犬のようにまとわり付いてくる高尾を、しっしっとうっとうしそうに追い払う。
「うーっす。高尾は今朝も無駄に元気だな……」
「おはよう……ございます」
 高尾の隣でボールを弄っていた緑間だったが、宮地と視線が合った途端、顔がかあっと赤くなった。
「おう、おはよ……」
 ぞんざいに挨拶を返すが、緑間につられて何だか宮地も恥ずかしくなってしまい口ごもる。調子が狂うなと、宮地は後頭部を掻いた。
 そんなやけに初々しい雰囲気をかもし出す様子に、高尾は何度も二人の顔を見比べた。
「えっ!? えっ!? どうしたの、二人とも……」
「何でもない」
「何でもねーよ」
 間髪入れずの否定の言葉すらもハモり、高尾は益々じとりと視線を厳しくした。
「ええー!? 何でもないってことはないだろ真ちゃん。……はっ! もしかして昨日宮地サンに何かされた!?」
「なっ! 何でもないと言っているだろう!?」
「オレが妹ちゃんの世話をしている間に……まさか……」
「高尾!!」
 普段は乏しい緑間の表情がくるくると変わる。それはそれで可愛いのだが、何かしらあったのだということを雄弁に物語っていた。
「だって真ちゃんってば真っ赤じゃーん」
 益々赤みを増していく緑間の頬を、高尾は無遠慮にほらーとからかうように指でつつく。
 するとごん、と宮地の拳骨が高尾の頭を直撃した。
「うっせーんだよ、高尾! 殴んぞ!」
「いってぇ!!! 宮地サン、お願いだから殴ってから言わないで!」
 頭を抑えながらぎゃんぎゃんと吠え立てる高尾を、ふんと鼻であしらう。
 そのやりとりの間に緑間は身を翻して、女バスのコートへ逃げてしまったようだった。
「宮地サーン……真ちゃんに何やったんスか」
 逃がさないとばかりに高尾にがっちりと腕をホールドされる。普段のように軽い口調で人好きのする笑顔にこにこと向けていたが、高尾の目は完全に笑っていなかった。
「お前……しつけーよ」
 こうして監督が現れて練習が開始されるまで、高尾の追及は続くのだった。

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