26歳高緑と6歳高緑が同軸で同居しているという、まったり系パラレル話です。高緑オンリーと冬コミにて無料配布していたものになります。エピソード3本つめつめ。
えぴそーど:ひとつめ
午後三時。かけておいたアラームの音で、緑間はもうこんな時間かと気付く。
かたかたと忙しなく動かしていたタイピングの手を止め、椅子の背に凭れかかり、ため息を一つ吐いた。
今日は随分と筆が進んだ。心地よい充足感に眼鏡を外し、清明を指で揉む。集中していたためか、眼精疲労もそこそこ。後で目薬でも点そう。
書きかけのファイルを保存して、パソコンをスリープに落とす。いつの間にか空っぽになっていたマグカップを手に、緑間は自室を出た。
――緑間真太郎、二十六歳。職業、小説家。
何の因果か、緑間は文筆業を営んでいる。売れ行きは好調。おかげで専業で執筆をしていても、それなりの収入を得ることができている。
きっかけは、大学時代に気まぐれを起こして書いてみた、一本のミステリー小説だった。最初の読者である黒子に勧められるまま、出版社に投稿してみたところ、これが絶賛を受け賞を取った。それからというもの、時流に乗って、とんとん拍子に作家街道を歩んできている。
人生は何があるかわからない。精緻なトリックが話題のミステリーという謳い文句で、自分の名前を冠した本が書店にずらっと並んでいる様は、最初夢でも見ているのかと思ったほどだ。今や押しも押されもせぬ売れっ子作家として、緑間は現在、ミステリーのみならず、幅広いジャンルに渡って著書を出版している。
十年前、バスケに明け暮れていた頃など、自分が将来作家になっているだなんて全く思いも寄らなかった。不思議な感覚だ。
不思議といえば、もう一つ。
キッチンに立った緑間は、マグカップを丁寧に洗い、牛乳をミルクパンへ注ぎ火にかけた。
戸棚から更にマグカップを二つ取り出し、トレイの上に並べる。何となく飲みたくなったココアを適量投入。今日のおやつは、昨晩高尾に作り置いてもらった林檎のゼリーだ。
鍋の縁が、ふつふつと細やかな気泡を浮かべ始める。時計を見れば、そろそろ彼らが帰宅する頃合になっていた。
緑間が、熱湯と温めた牛乳をマグカップに注ぐと同時に、玄関のドアノブがガチャガチャと音を立てるのが耳に届いた。
「ただいまー! 真ちゃん!」
「ただいまなのだよ」
元気な挨拶と共に、扉を開けて勢い良く飛び込んできたのは、ランドセルを背負った二人の小学生。
一人は真っ直ぐな黒髪を中央で分け、意志の強さを秘めたオレンジ色の瞳を人懐っこく細め、満面の笑顔を見せる溌溂とした少年。
もう一人は、特徴的な花緑青の髪、黒縁フレームの眼鏡の奥に美しい翡翠の瞳と長い睫毛を湛え、清廉な容姿を気難しさで覆った少年。
「お帰り。和成、真太郎」
そこには、紛れもなく幼い自分と高尾が立っていた。
そう。この世界では、二十六歳の緑間と高尾、そして六歳の緑間と高尾が同時に存在しているのである。
ファンタジーにおいて、パラレルワールドという概念がある。幾重にも渡る可能性の世界が平行に連なっており、各世界で人々は展開の異なる人生を歩んでいる。
しかし、神様の気まぐれか、時折、平行線の世界は交差する。
その気まぐれに巻き込まれてしまったようで、ある日突然、二十六歳の緑間と高尾が住むマンションに、六歳の自分たちがやってきた。目を疑ったのは、言うまでもない。
たまたま何かの――高尾曰く、おは朝の思し召しじゃないかとのことだが――歪みによって、自分たちの暮らす世界線と、小学生の自分たちが暮らす世界線が交わり、相互作用によっておかしな状態を生み出してしまったのではないかと推測される。
とまあ、今まで読み重ねてきたフィクションの知識を総動員して、ご大層な仮説を立ててみたものの、正解などわかるはずもなく。その辺りで、緑間は思考を停めた。
現在こういう世界が、違和感なく成り立っているということは、考えたところで無駄なのだろうと悟ったからだ。天命に従い受け入れるのみ。それに、年端も行かぬ自分たちを、このまま捨て置くわけにもいくまい。
以来、当たり前のように四人での生活がスタートした。
二組の緑間と高尾がいるという矛盾は、上手く因果律が制御してくれているらしい。何ともご都合主義なことである。
「真ちゃん、きいてきいて! オレ、かけっこでいちばんだったんだよ!」
きゃっきゃと足元に絡み付いて、和成が今日の出来事を自慢げに報告してくる。
その奥では、真太郎がむうっとむくれて、緑間のことを仰いでいた。不機嫌を隠しもしない。和成が、緑間にじゃれつくことが気に食わないのだろう。可愛らしい嫉妬。小さくてもちゃんと和成のことが好きなのかと、我ながら気恥ずかしくなってしまう。真太郎に気付かれないよう、緑間は微かに相好を崩した。
緑間は、やや興奮気味の和成を落ち着かせるように、薄い肩をぽんと叩いた。
「……和成、まずは手洗いとうがいをしてくるのだよ。話はそれからだ。真太郎も、ほら」
「はーい。いこっ、しんちゃん!」
「フン。おまえにいわれなくとも、オレはちゃんとそうするつもりだったのだよ」
和成を諌めて、洗面所へと追い立てる。真太郎は、ツンとすげない。昔の自分もこうだったのかと思うと、鏡合わせすぎて黒歴史を目の当たりにしている気分になる。どうにも居たたまれない。そんな風に考えてしまうのも、緑間が歳を取った証拠だろうか。
ランドセルを置き、ばたばたと勢い良く部屋を横断していく二人に小言を食らわせながら、緑間はおやつの乗ったトレイをリビングのコタツに運んだ。若くして、すっかり二児の父の気分である。以前高尾に、「真ちゃんってばマジオカン」とツッコまれた時には、一発拳をお見舞いしてやった。
「きょうのおやつは!?」
「林檎のゼリーとココアなのだよ」
「ゼリー! きのうのよるに、おっきい高尾がつくっていたやつか?」
「ああ」
言いつけ通りに、手洗いとうがいを済ませてリビングに駆け込んできた真太郎と和成は、仲睦まじく隣同士でコタツに入る。ぬくぬくとした暖かさに包まれて、彼らの頬が幸せそうに緩んでいくのを見ると、緑間もほっこりしてしまう。
おやつを配ってあげれば、いただきますと行儀良く手を合わせ、二人は夢中で頬張り始めた。
ココアを口にしながら、何とはなしに真太郎と和成の食事風景を眺める。
こうやって、小さな子が目をキラキラさせておやつを食べている様子というのは、いくら自分たちといえど、庇護欲をそそられてしまうものだ。
殊更、和成が可愛く映ってしまうのは、完全に緑間の贔屓目のせいだろう。だって、写真でしか知り得なかった高尾の過去の姿を、目の当たりにしているのだから。この感動は、筆舌に尽くしがたい。言葉にしたら揶揄われるのがわかっているので、死んでも高尾に告げたりしないけれど。
「ほら、口元についているのだよ。落ち着いて食べろ、和成」
「んー! だって、おいしいんだもん!」
「ゼリーはにげないのだよ、たかお」
口周りをベタベタにして、ゼリーを忙しなく食べている和成を、緑間は窘めた。緑間と一緒に説教をした真太郎はというと、スプーンでゼリーを小分けにして、上品に口にしている。こちらを見習って欲しいものだ。やはり同年代の子供に較べて、自分は随分と畏まっていたのかもしれないと、二人の有様を見比べて微苦笑を浮かべる。
緑間は和成の唇の横に付いたゼリーの欠片をとってやり、そのまま口に含んだ。
ゼリーは、ほんのり甘酸っぱかった。
* * *
金曜日の今日は、仕事で高尾の帰宅が一際遅い。だから、緑間の料理当番の日だ。
器用なくせに、緑間は何故か料理にだけはその手腕を活かせなかった。けれども、負けず嫌いな性分もあって、とにかく人事を尽くした。
高尾と火神に特訓をしてもらい、レシピと睨めっこしながら、ひたすら練習を繰り返した。在宅ワーカーであるのをいいことに、何度キッチンを汚して、高尾に叱られたかはわからない。レンジをダメにして、高尾に遠い目をさせてしまったのは、あまり思い出したくもない記憶だ。
おかげでどうにか、カレー、シチュー、ポトフくらいまでは作れるようになった。投入するのがカレールーか、シチュー顆粒か、コンソメかの違いだというツッコミは野暮である。
「しまった……」
そんなこんなで夕食を作り始めたのだが、野菜を煮込み始めた辺りで、ルーが切れていたことに気付いた。うっかりもいいところだ。先週末は締切に追われていたため、すっかり在庫を失念していた。緑間は渋々鍋の火を消す。
「……おい」
「どうしたの?」
コタツで頭を突き合わせながら、宿題に取り組む小さい二人に声をかける。
「ちょっとそこのスーパーへ、買い物に行ってくるのだよ。二人で留守番できるな?」
コートを羽織りながら、緑間は財布と携帯をエコバックに突っ込んだ。ルーと、ついでに購入しておく日用品がないかを、頭の中でチェックする。
すると、和成がはいはいと手を上げた。
「オレもいきたい!」
「は? 買い物に行くだけだぞ」
「うん。いっしょにおでかけしたい! ねー、しんちゃんもいこっ?」
「しかたがないから、いってやるのだよ」
「やったー!」
和成の提案は、あれよあれよという間に勝手に実ってしまう。
多分、宿題への集中力を切らしてしまったのだろう。時計を見上げると、二人とも結構な時間頑張っていたらしい。緑間は、やれやれとため息を付いた。
「なら、あったかい格好をするのだよ。それと、帰ってきたらちゃんと残りの宿題を終わらせるんだぞ?」
「ラジャー!」
和成と真太郎は、先ほど脱いだコートをいそいそと着込んだ。
「くしゅん!」
「しんちゃん、さむい?」
「へいきなのだよ」
真太郎のくしゃみに反応した和成が、心配げに顔を曇らせる。そして、暖を分け与えるかのように、真太郎をぎゅうっと抱き締めた。少しだけ恥ずかしそうに、真太郎はくっついてくる和成を押しやる。
「……ふむ」
そういえば、ここのところ急に冷え込むようになった。アレを使うのに、そろそろ良い時期かもしれない。
緑間は、寝室のクローゼットから荷物を取ってきた。
「和成、真太郎、おいで」
「なになに?」
緑間は、手にした毛糸の帽子とマフラーを和成と真太郎に着せてあげた。以前、大坪が小さい二人のために、編んでプレゼントしてくれたものだ。漸く活用できる。
「あったかいのだよ……」
「わー、なにこれー! みみがついてるー!」
毛糸の手触りにうっとりとして、真太郎がマフラーに顔を埋める。和成は、帽子のぴょこんと飛び出している部分に手を当てながら、けらけらとはしゃいだ。どうやらお気に召したみたいだ。
大坪が随分と凝って作ったらしく、和成の帽子には犬の三角形の耳が、真太郎の帽子にはウサギの長い耳が付いている。小さい二人に似合っていて、とても愛くるしい。
あまりに可愛かったので、高尾と先輩一同にも見せてやろうと、緑間は携帯のカメラで写真を撮っておいた。
「しんちゃんかわいい!」
「たかおは、ねこさんなのか……?」
和成が爛々と目を輝かせるが、猫が苦手な真太郎は僅かに怯む。
「安心しろ。犬さんだと、大坪先輩が言っていたのだよ」
「……いぬさんなら、へいきなのだよ」
「よかったー!」
真太郎が安堵の表情を見せると、和成は自分のことのように喜んで、真太郎の頬に己のそれを擦り付けた。窮屈げではあったが、和成の愛情表現に真太郎も満更でもなさそうだ。
「よし、では行くのだよ」
「おー!」
真太郎と和成を連れて外に出る。随分と日が落ちるのが早くなり、辺りはもう宵闇に染まっていた。昼に較べて、外気はぐっと下がっている。やはり、二人に帽子とマフラーを装着させて正解だった。
あまり外に出ない生活を送っているためか、緑間は気温の変化に疎い。真太郎のくしゃみ様々だ。吹きすさぶ風の冷たさで、風邪を引いてしまいかねない。
緑間の後ろをちょこまかと付いてくる二人は、仲良く手を繋いで歩いている。歩く速度をゆっくりめに合わせていると、不意に暖かさが緑間の手に触れた。
「真ちゃん!」
きゅっと、和成の指が緑間の掌を捉えたのだ。子供特有の高い体温を持つ小さな和成の手は、冷えた緑間の指先を柔らかく包んでくれる。
驚いて下を向けば、破顔した和成が繋いだ腕をブンブンと振った。
「真ちゃんも、て、つなご!」
「……そうだな。和成が迷子になってしまうからな」
「ぶー! オレ、まいごになったりしないよ!」
「このあいだ、がっこうがえりにまいごになっていたくせに……」
「あー! しんちゃん、しーっ!!」
真太郎のチクりに、和成があたふたと顔を青褪めさせる。心なしか、被っている帽子の犬耳もへたれて見えるのだから面白い。
確かに先日、普段より帰宅が遅くなった時があったが、道草をくっていたというわけか。小学生ともなれば、知らない道は一つの迷路だ。好奇心の赴くままに、いつもは通らない道を通って、ちょっとした冒険気分を味わいたくなる気持ちはわからないでもない。しかも、彼は高尾のちっちゃい版なのである。
「全く。今度から、寄り道をしないでちゃんと帰ってくるのだよ?」
「う、うんっ!」
ビクビクと窺ってくる和成から反省の色が見えたので、緑間は恩情を施してやることにする。
緑間が怒らなかったことで、和成は詰めていた息を吐き、恐る恐る強張っていた肩の力を抜いた。
やがて、時間が経過してしまえば、先ほどまでの殊勝な態度はどこへやら。右手に緑間、左手に真太郎の手を握って、和成は酷く上機嫌だ。真太郎と学校での出来事を話しながら、時折フンフンフンと鼻歌など歌っている。
「こういうの、りょうてにはなっていうんだよね!」
「……おい。その言葉は、女の子に向けて使うものなのだよ。オレも真太郎も男だ、和成」
男に使うには相応しいと言い難い言葉に、緑間が眉を顰めれば、きょとんとした和成は澄んだ瞳を丸くした。
「そうなの? でも、真ちゃんもしんちゃんも、おはなみたいにすっげーきれいだから、だいじょうぶだよ!」
そういう問題ではない。
しかし、にこにこした笑顔で純粋に和成が呟くものだから、思わず緑間は毒気を抜かれる。
「お前は……。そういうことを言うのは、あと十年は早いのだよ……」
何となく、これがあの高尾和成の小さい頃なのだなと、やけに腑に落ちてしまった緑間であった。
* * *
寒かったのでシチューにし、遅い高尾を待たずして三人で夕食を取る。二人の宿題を確認したり、お風呂に入ったり、お気に入りのテレビ番組を見ていれば、あっという間に時間は過ぎていく。
普段であれば、八時を過ぎる頃には眠気に負けてしまう二人も、高尾の帰りが遅い休前日は夜更かしを許可されている。目を擦りながら、高尾の帰宅を今か今かと待っていた。
時計の短針が九を指して暫く経った頃。がちゃり、と玄関のドアが開いた。
「たっだいまー! 高尾ちゃん、ご帰宅~」
呑気な声が響き渡ると、真太郎がぴくりと反応した。コタツから抜け出し、玄関へと転がるように駆け出していく。
珍しく積極的に行動する真太郎の背中を、緑間と和成はぽかんと見送ってしまった。
「おかえり、高尾。おそいのだよ!」
「しんちゃーん、お出迎えとか高尾ちゃんカンゲキー! 待っててくれたのー!? 遅くなってごめんなー! うわー、しんちゃんってば、ぬっくぬくー!」
「高尾、つめたいのだよ! さわるな!」
随分とテンションの高い会話が聞こえてくる。
和成を見れば、玄関の方を睨め付けて、むうと頬を膨らませている。完全に夕方と逆パターンだ。緑間はつい、くつくつと声を漏らして笑ってしまった。本当に、飽きない子供だ。
「真ちゃぁん……」
不安げに眉根を寄せて、和成が拗ねているものだから、緑間は手を伸ばして頭を撫でた。ちょっとだけ、悪戯心が頭を擡げる。
「和成。高尾が帰ってきたから、オレは夕飯を温めてくるのだよ」
「ええー……」
和成から不満の声が漏れた。眦には、うっすらと涙が浮かび始めている。真ちゃんまで行っちゃうの? という、和成の無言の叫びが聞こえてくるようだ。
「ああ。だから、和成も一緒にオレを手伝ってくれないか?」
そう告げると、和成は一瞬あっけに取られた後、もげるのではないかというくらい勢い良く首を縦に何度も振った。
「うんっ! オレ、てつだう!」
「よし。なら、キッチンに行くのだよ」
泣いたカラスがすぐ笑った。見る見るうちに笑顔を取り戻した高尾を伴って、緑間はキッチンへと移動した。
「お帰り、高尾」
「おー、真ちゃんただいま。腹減ったわー」
真太郎を抱っこしながら、高尾は己の腹をさすって空腹アピールをする。真太郎は、疲れたようにぐったりと、高尾の腕の中で大人しくている。緑間の与り知らぬところで、攻防が行われた模様だ。
「今日はシチューなのだよ。今準備をしてやるから、コタツに入って待っていろ」
「ありがとー! 真ちゃん、愛してる」
「オレだってしんちゃんも真ちゃんも、だいすきだもん!!」
緑間の足元に纏わり付いていた和成が、突如、何の対抗心を燃やしてか高尾を睨みつけた。強い視線を受けて、にやりと高尾が愉しげに唇を歪める。
「おー? チビがナマ言うなあ? オレの方が、真ちゃんもしんちゃんも大好きだぜ? なー、しんちゃん♪」
高尾は、抱き込んだ真太郎の額にちゅっとキスを落とす。続けざまに、緑間の頬にも口付けてきた。完全な不意打ちだった。
「えっへー、奪っちゃった」
「あー! ちゅーしたー!!」
「なにをするのだよ!」
「こら、高尾! お前火に油を注いでどうする!?」
「ずるいー!! おっきいオレばっかりずるいー!」
三方向からの非難が集中するが、高尾はどこ吹く風だ。寧ろ、得意げにドヤ顔を披露しているのだから始末に終えない。完全に揶揄いモードへシフトしている。
緑間は、べしりと高尾の頭に平手を入れた。いてっと呟きが漏れたが自業自得だ。全く、大人気ない。このままでは和成が煩くなりそうだったので、緑間はさっさと高尾を引き離すことにした。
「子供相手に張り合うんじゃねーのだよ、このバカ。真太郎を連れて、さっさとコタツに行け」
「へいへい」
顎をしゃくって促せば、全然悪びれもせず、高尾はご満悦げにリビングを後にした。帰宅早々、やらかしてくれるものだ。
緑間が重いため息をつくと、くいくいとスウェットの裾を引かれた。視線を落とせば、和成が泣きそうな顔で、眉をハの字に歪めている。折角、機嫌を直したのに、元の木阿弥だ。
「真ちゃん、しゃがんで!」
「何なのだよ……」
「いいから!」
和成が駄々を捏ねる。ここで言う通りにしないと、益々面倒になりそうだったので、緑間は大人しく要求を飲んだ。
ゆっくりと腰を屈めた瞬間、頬に当たる柔らかい感触。和成に、キスをされた。ただ唇をぶつけてきただけの、キスと呼ぶには幾分拙いものではあったが。
緑間が目を瞬かせていると、和成は緑間の首に腕を回してしがみついてきた。
「オレだって、しんちゃんも真ちゃんも大好きだもん……。おっきいオレより、ずっとずっと大好きだもん……!」
「わかっているのだよ」
幼くても、和成が緑間と真太郎を大事にしてくれる想いは、痛いくらい伝わってくる。
ぐずりかけている和成を抱き寄せて、緑間はぽんぽんと背中を叩きあやしてやる。
顔を合わせれば負けじと火花を散らす高尾と和成が、お互いに同属嫌悪を露わにするのは、すっかり日常茶飯事だ。わざわざ、もう一人の自分を苛めなくてもいいだろうに。
こんなに可愛い和成を泣かせるとは何事だ。緑間は、高尾に対する報復を真剣に考え始めた。
「あー、美味しかった!」
和成に手伝ってもらい、温めた食事を提供する。腹ペコだと呻いていた高尾は、あっという間に夕食を平らげてしまった。過剰すぎるほど緑間の手料理を褒めるのは、毎度のことだ。
高尾の夕食を終えたので、緑間は茶を入れる。大人二人には緑茶、子供二人には蜂蜜の入ったホットミルクを作ってあげた。
「真ちゃん、あーん!」
先ほどのごたごたがあったせいか、べったりと甘えだした和成は、緑間の足の間に収まっている。和成はにこにこと嬉しそうに皮を剥いて、親鳥の如くせっせと緑間の唇にみかんを押し込んでいた。
「おいしい?」
「美味しいのだよ」
スーパーに買出しへ行った時に、ついでにと木村青果店にも寄って購入してきたみかんだった。まだ少し時期には早く小粒なみかんではあるが、程よく甘い。やはりコタツにはみかんが合う。
親密な二人の様子を羨ましげに見ていた高尾は、隣に座って行儀良くみかんを咀嚼していた真太郎を抱き上げ、強制的に自分の足の間に入れた。まねっこだ。
真太郎は、怪訝そうに高尾を仰いだ。
「なにをするのだよ……」
「しんちゃーん、オレにもみかんチョーダイ?」
「じぶんでむくのだよ。おとなのくせに、そのくらいもできないのか?」
「ああああん、しんちゃんのいけずー!」
「こら、高尾! グリグリするんじゃないのだよ!」
真太郎の容赦のない突っ込みが炸裂する。情けなく声を上げた高尾は、下顎を使い、ぐりぐりと真太郎の頭頂部を撫でやる。真太郎は、こそばゆそうに身を捩った。
「ねー、しんちゃーん。オレもーオレもー!」
「もう、高尾はしかたのないやつなのだよ……ほら」
根負けした真太郎は、自分の持っているみかんを無造作に割り、高尾に差し出した。しかし、高尾は口を軽く開けたままで、みかんを受け取ろうとはしなかった。
「あーんして?」
余裕めいた笑みを浮かべ、高尾がうっそりと目を細める。ほんのり頬を赤く染め上げた真太郎は、言われるがままにみかんを一房、指で摘んだ。
「……あ、あーん」
「わーい、しんちゃん好き好き」
「こっ、こら! ゆびをたべちゃだめなのだよ!」
「ふふ、あまーい。しんちゃんが甘いからなのかな?」
「たっ、たかお! くすぐった……っんう!」
みかんごと、かぷりと真太郎の白く細い指を口に含む。高尾はたっぷりと唾液を舌に乗せ、指を舐め上げたり、甘噛みを施している。酷く愉悦を含んだ高尾の表情は、どこか艶めかしい。性感を煽られた真太郎は、未知の快楽に目尻に涙をうっすらと浮かべ、はふはふと熱い吐息を零している。
「ほあー……」
目の前で繰り広げられる色めいた出来事に、赤面し言葉をなくした和成の興味が釘付けになる。子供には、些か刺激が強すぎるのではないか。
「わふ!? なにすんの、真ちゃん!?」
緑間は、見ちゃいけませんとばかりに、そっと和成の双眸を片手で覆う。そして、調子に乗っている高尾に向けて、左手の親指を立て首を掻っ切るジェスチャーをした。
「高尾。オマワリサンコチラナノダヨ?」
「はい。サーセンっした!!」
笑顔でのたまった緑間の瞳は、恐ろしいほどに笑っていない。ブリザードが吹き荒れそうなほど冷酷な蔑みの視線により、高尾の戯れは強制終了した。
和気藹々とみかんを食べ、飲み物を啜りながら、ぬくぬくとコタツで団欒を過ごす。日本人でよかったなあと思う瞬間である。
だが、そんな幸せも、時が過ぎれば終わってしまうもので。子供たちに、そろそろ限界が訪れてしまった。最初に規則正しい生活をしている真太郎が、こくんと舟を漕ぎ始めた。
「およ。しんちゃん、眠い?」
「んー……」
「あー、こりゃダメだな。しんちゃん半分寝てるわ」
「和成も眠そうなのだよ」
「へーきだもん……」
と強がるものの、意識は覚束なく、二人とも上瞼と下瞼がくっつく寸前だった。
高尾は、眠気でぐにゃぐにゃになっている真太郎の手を上げたり下げたりして、マリオネットのように操っている。
「真太郎で遊ぶな。二人を寝室に運ぶぞ」
「あいよ」
大人二人の腕の中で、ついには夢の国へと落ちてしまった子供たちを抱き上げて、ベッドに寝かせる。風邪を引かないよう、しっかりと毛布をかけてあげる。
小さな二人がすやすやと安らかに眠る様子を眺めて、緑間と高尾は顔を見合わせ微笑んだ。
「寝顔もほんっとキュートだよなあ。しんちゃんマジ天使」
「……フン。和成だって、お前と違って純粋で可愛いのだよ」
「あれれー? 真ちゃんってば、もしかして妬いてるー?」
「ふざけるな。全く、お前こそ和成にちょっかいを出してどうするのだよ。あれは、まだ小さいんだぞ?」
「そうやって和成和成ってさー。真ちゃん、随分チビと仲良くしているよねー?」
高尾の声音に、拗ねが混じっている。緑間は僅かに瞠目した。
「……お前、小さいのに妬いていたのか?」
「決まってんだろ。小さくたって関係ねーよ……」
猛禽のように鋭い視線が、緑間を射抜く。緑間の疑問にふっと口角を上げた高尾は、緑間の首へとしゅるりと腕を回した。そのまま耳元で低く甘く囁くと、耳朶に一つキスを落とす。ひくんと、反射的に緑間の肩が震える。
「チビばっかりズリーよ。大人のオレとも、たっぷりいちゃいちゃして欲しいんだけど?」
「……ここをどこだと思っている。盛るな」
「いでっ」
緑間は、遠慮なく手刀を高尾の頭頂部に食らわせた。怯んだ隙に、その腕から逃れる。折角いいムードになりかけていたというのに、締まらないものである。
「真ちゃんのケチー!」
恨みがましげに、高尾が唇を尖らせた。そんな高尾を放って、緑間は眼鏡のフレームを押し上げ、子供たちの寝室から出る。
「……まずは、その汗を流してからでないと、話にならんのだよ」
「!! 風呂、すぐ済ませてくるから!!」
緑間の照れ隠しに、高尾は赤くなって反応する。そして、バタバタと緑間の後を追いかけてくる。寝室のドアを閉める音は響かなかったから、幼い二人に対する配慮を欠かないのが高尾らしい。
「っととと、風呂の前に」
素知らぬ顔でリビングの隅へ逃げたのに、緑間は腕を掴まれ強引に振り向かせられる。かち合った、高尾のぎらぎらと光を放つ視線に、緑間は絡め取られてしまった。
後頭部を力任せにぐいと引き寄せられて、唇に高尾のそれが押し当てられる。
乱れた呼吸音と、僅かに立ついやらしい水音だけが、静かな室内に響いた。
暫く緑間の唇を堪能してから、やっと緑間を解放した高尾は、悪びれもせずに笑う。
「こんくらい、先にいーでしょ?」
「……バカめ」
憎まれ口を叩いて睨む緑間の瞳は、期待にとろりと蕩けた。
子供が寝た後で。
――大人の時間は、これから。
えぴそーど:ふたつめ
ぬくぬくと温められたリビングを抜ければ、一転、刺すような冷たさに襲われる。それでいて、清々しく透る空気は、冬の朝特有だ。ここのところ、急激に外気温が下がった。雪がちらつくとまではいかないものの、随分冬らしさを増した気がする。部屋の中だというのに、吐く息はうっすらと凍えている。
小学生二人よりも通勤に時間のかかる高尾は、一足先に部屋を出た。今頃、満員電車の洗礼を受けていることだろう。
玄関先のひんやりとした空気に首を竦めながら、緑間は靴を履いている二人――真太郎と和成に声をかけた。
「二人とも、気をつけて行ってくるのだよ」
「はーい!」
「いってきますなのだよ」
子供は風の子とは、よく言ったものだ。緑間が寒さに何枚も重ね着をして着膨れているというのに、小学生の二人は随分と薄着に見えた。風邪を引くからともっと着せようとしても、暑いといって嫌がるのだ。代謝の良い子供の体温は、総じて高い。特に和成など、抱き締めているだけで人間湯タンポである。
「あ、そうだ! しんちゃん、いってらっしゃい」
和成はぱっと思いついたように呟くと、寒さでばら色に染まっている真太郎の頬にちゅっと口付けた。真太郎は擽ったげに肩を寄せると、キスされた箇所に手を当てた。
「なにをするのだよ……」
「へへー」
「……は?」
目の前で交わされる光景に、緑間の思考が固まる。唖然としている緑間を尻目に、小さい二人は呑気に会話を続けている。
「しんちゃんもやってやって!」
「……いやなのだよ」
「どうして? はずかしいから?」
「……うっ、うるさいのだよ、ばかずなり!」
「ええー……」
酷くがっかりした様子で、眉をハの字にした和成は肩を落とす。それでも時折、ちらちらと上目遣いで期待を孕んだ視線を送っている。和成の弱った風を装ったおねだり顔というのは、真太郎の苦手なものの一つだ。案の定、顔を赤くしてうっと口ごもった真太郎は、困惑に視線を泳がせ迷った末に、やれやれとため息をついた。
真太郎が和成の頬に、押し付けるだけの可愛らしい口付けを返してあげる。すぐに唇は離れたのだが、見る見るうちに和成に笑顔が戻っていく。全く現金なものだ。
和成はデレデレとやに下がり、頬に両手を当てて喜ぶ。その様子に、真太郎も満更ではなさそうだった。はにかみつつも、ちょっと得意げだ。
「えへへ。ありがと。しんちゃんだいすき!」
「……フ、フン。このままだとおくれてしまうからな!」
「あ、そうだった! じゃあ、いってきまーす」
「……ちょっと待て!」
そのまま何食わぬ顔で登校しようとする和成と真太郎の肩を掴み、緑間は待ったをかける。後ろに引っ張られた二人は、きょとんと緑間を仰いだ。
「どうしたの? 真ちゃん」
「がっこうにちこくしてしまうのだよ」
「いや、すまない。さっきのは一体何なのだよ!?」
「さっきの? いってらっしゃいのあいさつ!」
緑間がしゃがみ込んで視線を合わせると、和成は元気いっぱいに無邪気な笑顔で応えてくれた。恥じらいなど一切見られず、正直意味がわかってやっているとは思えなかった。
緑間は額に手を当てた。頭痛がしそうだ。もしかして、これを所かまわずやっていたりはしないだろうな。脳裏を過ぎった嫌な予感に、緑間の背中を冷たい汗が伝う。
大体二人とも外に出るのに、何故わざわざいってらっしゃいの挨拶をする必要があるのだ。単なる見よう見真似の子供の戯れだろうに、緑間は律儀に内心でツッコミを入れた。
「どこでそんなことを覚えてきたのだよ……」
「ええー? 真ちゃんとおっきいオレがしてるじゃん」
「はあ!?」
和成の応えに、緑間は素っ頓狂な声を上げてしまった。
いってらっしゃいとお帰りのキスは、高尾がどうしてもとねだってねだってねだって、粘り勝ちをして頬にだけという約束で習慣付いた行為だ。玄関先で密やかに交わされる軽めのキスは、毎日しているわけではないし、一瞬で終わる類のものだ。
だから、よもや小さい二人に目撃されていただなんて、想像もしていなかったわけで。顔から火が出そうだった。
「あー、わかった。真ちゃんもしてほしいんだね」
悶々としている緑間をどう勘違いしたのか、和成が背伸びをしてちゅっと軽やかに頬へと口付けてくる。
可愛い。ではない、何故そうなる。次から次へと繰り出される攻撃に、緑間の思考は上手く回ってくれない。
にこにこと笑う和成に毒気を抜かれて、緑間は唇を開けたり閉じたりを繰り返した後、がっくりと項垂れた。
「……そういうことは、絶対に人前でするんじゃないのだよ」
聞きたいことも言いたいことも沢山あったにも関らず、結局咄嗟に言葉にできたのはそれだけだった。
「うん、わかった!」
「そんなのしないのだよ、はずかしい!」
「わあ、しんちゃん。もういかないと、がっこうおくれちゃうよ!」
「はやくしないと、せんせいにおこられてしまうのだよ。いってきます」
「いってきまーす」
仲睦まじく手に手を取り合って、真太郎と和成は登校して行った。
小さな後姿を見送った緑間が、どっと押し寄せた心労に玄関先で膝を付いたのは言うまでもない。
* * *
「ただいま。はー、さみぃ」
「お帰りなのだよ」
「今日も頑張ったオレをあっためてー、真ちゃん」
へらへらと茶化したことを言いながら、高尾は流れるような仕草で緑間に唇を寄せてくる。が、頬に触れる寸でのところで、緑間の両手がそれを阻んだ。
「……どうして拒むんだよ」
当たったのが頬ではなく無骨な掌だったせいか、高尾から不満の声が漏れる。むっすりと唇をへの字に曲げて、眉間に深く皺を刻む。
だが、緑間も負けじと視線を険しくする。
「高尾……。いってらっしゃいとお帰りのキスは、暫く取りやめにするのだよ」
「えっ? 急に何でだよ!?」
「何でもだ!!」
小さいのがたまに見ていたことを、高尾が察知していないわけがない。つまり、高尾は知っていながら、見て見ぬ振りをしていたというわけだ。
まだ小学生の子供の情操教育に、よろしくないではないか。
それ以上に、小さい二人の前であんなベタベタした姿を見られていたなど、緑間の沽券に関わる。
「ええー、オレの活力なのにぃ!? 本当、どうしちゃったわけ!? オレ、何かしたっけ?」
「フン、知るか。自分の胸に聞いてみるのだな」
「真ちゃぁぁあん!」
羞恥からぷんすかと怒り散らす緑間の真意など、帰宅したばかりで事情のわからぬ高尾にはさっぱりである。
何せほぼ緑間の八つ当たりなのだから、いくら緑間翻訳暦の長い高尾でも見通せるはずもない。
こうして、とばっちりを喰らった高尾が緑間を宥めすかしてご機嫌を取り、いってきますとお帰りのちゅーを解禁されるのは、約二ヵ月先のことであった。
えぴそーど:みっつめ
「ふぁ……んっ……」
常夜灯だけが闇に浮かぶ薄暗い寝室で、はしたない水音と熱く濡れた吐息が微かに響く。二人分の体重を支えるベッドのスプリングは、角度を変える度にギシギシと小刻みに揺れた。
どろどろに溶けてしまいそうな深いキスは、嫌が応にもこの先への期待を昂ぶらせる。
キスから解放し、紅色に染まった耳朶を柔く食めば、まだ余韻を逃しきれていない緑間は、むずがるように身体を捩った。
「しつこい……」
「好きなくせに」
揶揄い混じりにくすりと笑うと、緑間の眉間に皺が寄った。しかし、紅潮し涙目で睨まれたところで、逆効果でしかない。高尾には愛おしく映るだけだ。
「煩い……っんぅ!」
こういう時の緑間は、普段以上に天邪鬼だ。嫌だ、止めろと否定を口にしながら、強引に進められるのが案外好きだったりする。勿論、加減の見極めは大事であるが。やり過ぎてもダメ、やらなすぎてもダメ。高尾のお姫様は相も変わらず面倒だ。
理性の箍がなかなか外れず、羞恥が強いせいもあるのだろう。時折、額面通りに行為を止めてあげると、途端に不機嫌になったり、拗ねたりするのだから可愛いものだ。
唇を耳朶から首筋へと移し、痕が残らない程度に吸い上げる。同時に緑間のパジャマのボタンを上から順に外していく。
高尾の頭上で、緑間が小さく息を荒げているのが届く。馴らされた身体は、高尾が触れる度に、きちんと反応を返してくれる。
緑間の身体は、言葉よりずっと正直だ。そうなるように仕込んだのも、高尾なのだけれど。
はだけた緑間の上半身は、男にしては華奢でありながらもしっかりとした体つきなのに、オレンジ色の淡い光に照らされて酷く淫靡に映る。いつ見ても滑らかで抜けるような肌は、高尾を虜にする甘美な毒のようだ。こくりと自然に喉が鳴る。
鎖骨に噛み付き、くぼみを舌で舐めれば、緑間の声に色が混ざる。その隙に、指先を左胸の頂へと這わせる。何度か指先で弾き、ぷっくりと尖り始めた乳首を摘み上げれば、緑間は反射的に身じろぎ腰を浮かせた。
「んん……ふあぁっ!」
殺しきれなかった嬌声が漏れる。裏返った可愛い声に、高尾のテンションも高くなる。
「あんまり大きな声出すと、隣の二人が起きてきちゃうぜ?」
「こんの……バカぁ!」
「それとも、真ちゃんのこーんなえっちな姿、チビにも見せたいとか?」
顔を上げ、緑間の耳元で声を潜める。低く落としたトーンに反して、指先はきゅ、きゅと強弱をつけて乳首を捏ね回す。
ちょっとしたスリルの一環として苛めてみるものの、隣の二人――色々あって居候している6歳の自分たちである真太郎と和成――は、まだまだ幼い限りなので、よっぽどのことがない限り、朝までぐっすりおねむだ。
「あ……やぁ! やめろ……あっ!」
緑間はゆるゆると首を振って、髪を乱した。羽毛みたいな長い睫毛が、ふるふると小刻みに震える。綺麗で清廉とした翡翠色は、涙にしとどに濡れそぼり、高尾の嗜虐心をこれでもかと煽ってくれる。
視線がかち合うと、弱々しく睨まれた。そのくせ瞳の奥は欲に蕩けているのだから、このアンバランスさは、高尾の最も好む部分だ。高尾の背筋を、ゾクゾクとえもいわれぬ快感が駆け上ってくる。
「ほんと、真ちゃんってば胸弱いよね。かーわいい声。ね、もっと聞かせてよ」
「ばっ……! や……ひぁっ!」
僅かに上ずった緑間の声に、高尾の欲望もむくむくと擡げる。胸に舌を這わせ、先端を口腔内に含み転がしてやると、面白いくらい緑間の腰はひくひくと跳ねた。高尾はうっそりと目を細める。
本格的なバスケを止めてから少し筋肉の落ちた腹を滑り、右手は下半身へ。
与えられる甘い刺激に、緑間が両の掌を唇に押し当て、必死に喘ぎを押し殺しているその時だった。
バーンとドアが大きな音を立てて開かれる。
「真ちゃん、おしっこー!!」
「うわああああああああああああああああ!!」
「どわっ!?」
甲高く幼い声が響くと同時に、緑間は絶叫を上げ、腹に乗っている高尾を力一杯蹴落とした。
「……ってえ……! てか、真ちゃん蹴るとか酷ぇ!」
一瞬何が起きたのか理解できなかった高尾は、見事にひっくり返り床に強かに打ちつけた腰をさする。文句を零しながら、ベッドの上へと恨みがましげな視線を投げれば、緑間は半ばパニック状態になっていた。肌蹴られたパジャマの前を、あわあわと必死に掻き合わせている。狼狽しすぎて、ボタンを留めようにも上手くかけられず、焦りが募って悪循環に陥っていた。
こういう時の緑間には、なかなか高尾の声が届かない。暫く放っておけば落ち着くだろうと長年の経験から判断し、高尾は現状を招いた元凶たる存在に一瞥をくれた。おかげで、折角のいいムードが霧散してしまったではないか。
「真ちゃん、はやくついてきて!」
入り口に立ちつくしている和成は、眉尻を下げ、酷く不安げな様子をしていた。もじもじと内股を合わせながら、なかなか返事を返さない緑間に焦れてせっついてくる。
「ったく……お前のせいで台無しだよ……」
高尾は、やれやれと髪に手をいれてかき回した。いつもならぐっすり朝まで寝ているくせに、よりにもよってとんだ誤算だ。全く、この歳になってトイレに付き添って欲しいとは情けない。目の前にいるのは幼い頃の自分でもあるので、我ながらいたたまれない気持ちになった。
とはいえ、和成もまだ六歳だ。深夜、ましてや暗闇の中というのは、子供の想像力が豊富に掻きたてられる。トイレなどすぐそこだとわかっていても、妄想の産物の手によって、存在しないものがさも存在し、背後に忍び寄ってくるかのように錯覚してしまうものだ。勿論、自分自身にも思い当たる過去はある。
と、そこで高尾はピンときた。
「はーん……。さてはチビ、お前さっき見たテレビのお化けが恐いんだろう」
「……っ!」
高尾の指摘に、和成が悲愴な表情でびくりと肩を跳ねさせた。ビンゴだ。
寝る直前まで、テレビのロードショーで放映されていたアニメ映画を四人で見ていたのである。その中で登場した、得体の知れないお化けみたいなキャラクターに、和成も真太郎も怯えていた。
高尾からすれば子供だましのデザインにしか見えなくても、幼い二人には酷く奇異なキャラクターに映ったのだろう。
「一人でトイレにもいけねーくらい恐かったかー。そっかそっか」
高尾が嫌味ったらしく揶揄えば、和成は恥ずかしさにふるふると身体を震わせ、目に大粒の涙を浮べる。折角の緑間と触れ合う機会を邪魔されたのだ。このくらいの仕返しくらい可愛いものだろう。
「……和成を弄るのはそのくらいにしておくのだよ」
「へいへい」
漸く混乱から復活を遂げた緑間が、ごほんと咳払いをする。服の乱れを直した緑間は、さっきまでの艶めいた色事なんてありませんでしたという済まし顔をしている。しかし、パジャマのボタンが掛け違っているのは、後々の反応を楽しむためにご愛嬌ということで黙っておくことにした。
緑間はスリッパをつっかけると、ベッドから腰を浮かし、和成の元へと歩いていく。和成は、寄って来た緑間の足にべったりとしがみ付いた。
「……和成、離せ。ほら、一緒に行ってやるから泣くんじゃないのだよ。男だろう」
「なっ、ないてないもん……!」
「オレがいるのだから恐くない。大丈夫なのだよ」
「うん……」
「高尾、先に寝ていろ」
「寝られるかっつの!」
しゃくりあげている和成を嗜めて、緑間は小さな手を取りトイレまで付き添っていった。ぐずっているから、宥めるのに時間がかかるかもしれない。
高尾は、がっくりと肩を落とし、思い切りため息を付いた。久しぶりの触れ合いだったというのに、てんやわんやのせいですっかり息子も萎えてしまった。
緑間も和成の面倒を見るのにお母さんモード――と緑間に言ったら激昂するだろうが――へと突入してしまった。この調子では、もう今日はセックスの流れにはならないだろう。あーあと内心気落ちする。
床に落としていた掛け布団を整え、ベッドヘッドにおいてある時計を見る。深夜零時半を少し回ったところ。お愉しみはこれから、というところで邪魔が入ったものだ。消化不良すぎて、眠気も訪れるわけがなかった。
「……しんちゃんの寝顔でも見てくるか」
気を取り直して、高尾は隣の子供たちの寝室へと足を向けた。
一方、トイレに連れ立った緑間はというと――。
「ねぇねぇ、真ちゃん」
「ん?」
「さっきおっきいオレとなにやってたの? なんではだかだったの?」
「ぐっ……!」
無垢な和成からの応え難い質問攻撃に、顔を真っ赤にしてどうしたものかと辟易するのだった。
* * *
隣は元々高尾の部屋だった。だが、基本的に寝る時は緑間が利用しているキングサイズのベッドを共有していた。なので、ろくろく使われない部屋は、半ばラッキーアイテム込みの荷物置き場と化していた。それを真太郎と和成がやってきた時に、子供部屋として明け渡したのである。
音を立てぬように、そろりとドアを開ける。細く開いた隙間から、リビングの光が漏れ入る。
緑間は寝つきが良く、一度眠ると滅多なことで朝まで起きない。だから、緑間と同じく真太郎もぐっすりと眠っているだろうと思いきや。
高尾の予想に反し、びくりとベッドの上で小さな塊が身じろいだ。
「……しんちゃん? 起きてたの?」
「た、高尾ぉ……!」
高尾が声をかけると、安堵と涙の混じった、真太郎のか細い声が上がった。
さっきの和成の例もある。もしかしたら逆光のせいで高尾だという認識ができず、得体の知れない黒い影が突然現れた、とでも思ったのかもしれない。そうだったら悪いことをした。
高尾は内心苦笑しながら、部屋のライトを通常灯に変え、真太郎が座り込んでいるベッドに向かった。蛍光灯の明るい光の下で、真太郎は兎のぬいぐるみを胸にぎゅうと抱き締めて半泣き状態になっていた。緊張で身体が強張っている。目の焦点が合っていないのは、涙と弱い視力のせいだろう。
高尾は、サイドボードに置かれていた真太郎の眼鏡を手に取りかけてやる。視界がクリアになり、目の前の高尾をきちんと認識できた真太郎は、珍しくへにゃりと表情を歪めると、勢い良く高尾の胸に飛び込んできた。
「たっ、たかおがいなくなってしまったのだよ……!」
「ああ。チビなら真ちゃんとトイレだから」
「……おばけにつれていかれたとかではないのか?」
「うん。大丈夫だよ」
どうやら真太郎も、ばっちり想像力の魔の手に捕まっていたらしい。
余程不安だったのだろう。真太郎はえぐえぐとしゃくりあげながら、高尾の肩口に額をぐりぐりと押し付けてくる。普段ツンと済ました姿は鳴りを潜め、恐さに震え縋ってくるのに、高尾の口元はついつい緩んでしまった。
まずは落ち着かせるべく、高尾は真太郎の小さな背中に手を回し、ぽんぽんと叩いてあやしてあげる。
眠りの深い真太郎がこんな時分に起きているのは、トイレで目覚めた和成が一人は嫌だと真太郎を揺すったのかもしれない。案の定、真太郎が起きてくれなかったので、諦めた和成は緑間のところにやってきたと考えるのが妥当だろう。ところが、不幸にも真太郎はゆっくりと目覚めてしまい、気が付けば和成がいないことにパニックを起こしかけていたと高尾は当たりをつけた。
想像力の化け物は、かくも傍迷惑なものか。今後、寝る前に子供を脅かす類の視聴はやめておこうと、高尾は固く誓うのであった。
高尾の体温と、ゆったりとしたリズムで背中を叩かれるのに安心したのだろう。暫くすると、真太郎は涙を拭い顔を上げた。
「恐かった?」
「べっ、べつにこわくなんてないのだよ……!」
「はいはい」
「ほんとうなのだよ! 高尾!」
「はいはい」
あんまりにも真太郎が必死で可愛いので、にこにこと笑顔で応じたのに、真太郎は拗ねてむすっと頬を膨らませた。それでも、しっかりと高尾の首に手を回している辺りはまだまだ甘えただ。
離れる気配のない真太郎に、さてどうするかと高尾が思案していると。
「ああ、こっちにいたのか」
和成とトイレに行っていた緑間が、ひょいと顔を覗かせた。
「真ちゃん、お帰り」
「なんだ、真太郎も起きていたのか」
高尾にしがみついている真太郎を見て、緑間が吐息を漏らした。
「うん。多分チビのせいじゃねーかな」
そう言って高尾が視線を巡らせた先―緑間の足――には、べったりと和成がへばりついている。絶対に離れないぞという意志が窺える。動きづらそうなことこの上ない。
似たような状況に、高尾はたははと乾いた笑いを浮かべた。
「どうしよっか、これ……」
「どうもこうも……お互い離れそうにないのだから、一緒に寝るしかあるまい」
「ですよねー……」
緑間は足元にひっついていた和成をはがして抱き上げ、目線を合わせる。ぶわりと浮いた身体に、和成は一瞬目を丸くした。
「しんちゃんと真ちゃんといっしょ?」
「ああ、そうだ。それとも、こっちで真太郎と二人で寝るほうがいいか?」
即座に和成は、ぶんぶんと首を横に振る。真太郎にもちらりと視線をやってみれば、同様に否定の意を見せた。
「決まりだな」
高尾も真太郎を抱っこし、ついでに枕を回収して隣室へと移動を開始する。
「真ちゃんのベッドでも、四人だとちょっと狭いかな」
「お前だけ子供部屋で寝ても、オレは一向に構わなのだよ」
「仲間ハズレはいやですぅ!」
そうこう軽口を叩いているうちに寝室へ到着し、布団を捲った間に小さい二人をベッドに下ろす。スプリングの良くきいた大きなベッドなので、真太郎と和成はころんと転がった。
すかさず体勢を立て直した和成が、真太郎に抱きついた。普段ならば恥ずかしがって嫌がる真太郎も、今日ばかりは寂しさが募っていたのか、和成を拒否しなかった。
「しんちゃん!」
「たかおっ! ひとりでいなくなったらだめなのだよ!」
「うん。おきちゃうとはおもわなくて……。ごめんね、しんちゃん。こわかった?」
「フ、フン……! こ、こわくなんてなかったのだよ……」
「しんちゃんスゲー!」
虚勢を張る真太郎に、ついつい高尾が吹き出す。真太郎はむうっと唇を尖らせた。
小さい二人を真ん中に、両脇を緑間と高尾で固める。多少手狭にはなるが、和成以外は寝相も悪くないので問題ないだろう。
「よーっし、寝ろ寝ろ!」
布団を大仰な仕草でがばりと被せると、真太郎と和成は額をつき合わせてくすくす笑った。普段一緒に就寝することなどないから、いわゆる合宿みたいな気分で心躍るのかもしれない。高尾が二人の面倒を見ている間に、緑間が照明を常夜灯に切り替えた。
「あー、これあれだわ、川の字で寝るっていう……」
二人を寝かしつけながら、肘を立てて上半身だけを軽く起こし、頬杖を付いた高尾はぼやいた。
自分が幼い頃は、川の真ん中になっていたこともあった。だがまさか、川の端を担当することになろうとは露とも思わなかった。
「川の字には、一本多いのだよ」
「そういうツッコミは野暮だぜ、真ちゃん」
子供の体温は暖かくて、寄り添っていると酷く安堵を誘う。
もう夜も随分更けていたので、ちょっとはしゃいでみせた小さい二人は、すぐにくうくうと寝入ってしまった。身を寄せ合い、お互い手を繋いで眠っているのが、心細さを体現しているようでとても愛らしい。
眺めている緑間と高尾の表情も、デレデレとやに下がるというものだ。
「たまにはこういうのも団欒っぽくていいかもね」
「ああ、可愛いのだよ」
「これが自分たちかと思うとアレだけど」
「くすぐったいな」
くすりと穏やかに目を細めながら顔を見合わせると、高尾はそのまま不敵に口角を吊り上げた。
「ま、真ちゃんとえっちできなかったのは正直残念だけどな?」
「おい……」
こんなところで何を掘り返すのかと、緑間が非難めいた険しい視線を浴びせてくる。だが、緑間はすぐに苦渋の表情を見せたかと思うと、ぷいと反対側に体勢を変え高尾に背を向けてしまった。
「オレだって寸止めされて辛いのだからお互い様なのだよ」
「おま……っ! このタイミングでそゆこと言う!? 殺生な!?」
がば、と勢いのまま身を僅かに起こし、高尾ががなる。すると、それに反応した真太郎が、ううんと微かに唸って寝返りを打った。高尾も緑間も瞬時に息を殺し、真太郎の動向を恐る恐る見守る。が、暫くして起きないことを確認し、へなへなと脱力した。時間にするとほんの僅かではあったが、無駄に緊張感に満ちてしまった。
「……静かにしろ。二人が起きる」
「……あい」
オレンジ色の薄暗い室内に、はぁと二つのため息が重なる。それが無性に面白くなって、段々と忍び笑いへと変わる。
「オレらも寝るか。おやすみ、真ちゃん」
「ああ。お休みなのだよ」
就寝前の挨拶を交わして、高尾も緑間も静かに瞼を落とした。