浮いていることと可愛げのないことを自覚しているせいで色々が抜け落ちている緑間♀さんと、そんな緑間さんに何となく振り回される宮地さんのお話の続きです。緑間くんが女体化していますのでご注意ください。
(どうしたらいいのだよ、何なのだよ!)
帰宅早々、リビングにいる母に夕食を断ってから、一目散に自室に駆け込むと、緑間はベッドに身を投げ出した。
制服が皺になってしまうだなんて考えも今は頭にない。几帳面な緑間がそんなことすら気にかける余裕もないほど、今の彼女の思考回路を占有しているのは先ほどの出来事だ。
宮地に強引に抱きしめられて、キスされそうになった。
それは、自身に無頓着すぎた緑間のことを慮っての行為だったとはいえ、まさか可愛げのない自分が襲われるだなんて露とも想像していなかった緑間には衝撃的だった。
自分なら例え襲われたところで冷静に対処できると思っていたし、実際夏に変質者に遭遇してしまった時だって簡単にあしらえた。
それなのに、宮地には全く手も足も出なかった。押さえつけている目の前の宮地が、何だか違う人のようで少しだけ恐かった。
結局、いかに緑間の認識が甘かったのか、宮地は身をもって教えてくれた。しかも驚いて泣いてしまった緑間をそっと抱きしめて、泣き止むまであやしてくれたのだ。
物騒なことを平然と口にする割に、宮地は酷く優しい。そこまでさせてしまった己の不甲斐なさが嘆かわしいと同時に、ドキドキと心臓が大きく音を立てる。
宮地の射抜くような真剣な眼差し。
抱き寄せられた時の広い胸元。
外そうと思ってもびくともしなかった力強い腕。
耳元で意地悪く囁かれた低い声。
不意に宮地とのやりとりを思い出して、やっと収まったはずの熱が顔に再度集まる。
恥ずかしさといたたまれなさと情けなさがない交ぜになって、緑間はうあああと奇声を発しながら、ベッド脇においてあるぬいぐるみをぎゅうと抱きしめて悶えた。
(これは何なのだよ!?)
――先輩のことがずっと頭から離れないだなんて、どうかしている。
さっきから勝手にこみ上げてくる熱と動悸に、緑間は困惑するばかりだった。
逃げる緑間さんと追いかける宮地さんのお話
土曜日のバスケ部の練習は午前で終了となるため、午後はオフになる。普段であれば、高尾と宮地の二人と居残り練習などを行うのだが、緑間は約束のために体育館を後にした。高尾に用事が何なのか散々聞かれたのだが、煩いと一蹴して今に至る。
あれから宮地とはろくに話をしていない。
次の日の朝練は挨拶を交わしているうちに、高尾と宮地がじゃれ始めたのでその隙に逃げ出した。部活と居残り練習は、何故か執拗に高尾がまとわりついてきたこともあって、宮地とは普段以上に接触が少なかった。
宮地と顔を合わせづらいなと身構えていたので、緑間は少しほっとしていた。ちょっとだけ寂しいだなんて思っていない。
「ああ、いかんのだよ……」
また宮地のことを考えている。緑間は頭を緩く振ると、通り沿いにある本日の待ち合わせ場所であるマジバへ颯爽と足を速めた。
自動ドアをくぐり、緑間は土曜日の昼過ぎでそれなりに人で賑わっている客席へと視線を向ける。待ち合わせの相手の傾向からして、奥のほうの静かな席に陣取っているはずだと予想して、注文をせずに店内をきょろきょろしながら流し始めた。
ややあって、突如制服の裾をくいと引かれる。びくり、と反射的に緑間の肩が跳ねた。制服の裾の先を見やれば、ボックス席にちょこんと座った小柄な少女の姿が映る。緑間はふう、ととっさに止めた呼吸を再開した。
付き合いを始めて長らく経つが、緑間を探してもらうのが一番効率がいいとはいえ、相変わらず彼女との待ち合わせ方法は心臓に宜しくない。
「黒子。すまない、待たせたか」
「いえ。ボクも今しがた来たところですからお気になさらず」
先ほどまで認識すらできなかったほどに影が薄い少女――黒子テツナは緑間の裾から手を離して首をふるりと横に揺らした。
「時間をとらせて悪いな」
「丁度、誠凛も練習が午前で終わりでしたから」
購入してきてはどうですかと黒子に勧められ、緑間は荷物を置いてから自分の商品を注文しにいく。
昼がまだだったので、バーガー1つとおしるこを受け取って、緑間は黒子の元へと戻った。
緑間と並んで無表情で物静かな彼女は、目を通していた文庫本をぱたんと閉じると、のんびりとシェイクを飲み始めた。トレイの上にはアップルパイとシェイクの二つ。緑間も人のことを言えないが、黒子も相当小食だ。倒れたりしていないだろうか。言葉には乗せないものの、少しだけ心配に柳眉を顰めた。
黒子は存在そのものが儚いこともあるが、透明感のある小さくて華奢な少女だった。一見無愛想ではあるものの、時折見せる笑顔がとても愛らしい子で、でかくて意地っ張りで素直になれず可愛げのない緑間とは大違いだ。守られるべき女子の姿というのはこういうことをいうのだよと結論付けて、自分の思考に何だか物悲しくなった。
今はそんなことを考えている場合ではないと邪念を振り払い、もそもそとバーガーに手をつけながら、黒子とまずは近況報告を交わす。部活のこと、最近読んだ本のこと、他のキセキたちのことなど他愛無い会話をしているうちに、漸く緑間がバーガーを、黒子がパイを食べ終えた。
そこで一度話題が途切れて、黒子が手につけていたシェイクを味わってからトレイに戻す。そのままゆっくりと口元で指を組んだ。
「さて、そろそろ本題に入りましょうか」
「う、うむ……」
「相談がある、とのことでしたが。緑間さんがボクに相談だなんて珍しいですね」
「色々考慮した結果、お前が適任だと思ったのだよ」
黒子が僅かに目を丸くした。キセキの世代の中で、緑間が特に懇意にしていたのは赤司である。黒子とは本の趣味が合うので、時折連絡を取っている程度の仲だ。その緑間が、歯切れ悪く心底困った様子で相談に乗ってほしいときたのだから、黒子は自然と深刻そうに表情を険しくした。
「何かありましたか?」
「……ちょ、ちょっと待つのだよ」
首を傾げて先を促す黒子に、そわそわと落ちつかない緑間がストップをかける。
緑間の相談というのは、もちろん先日の宮地との出来事だ。だが、ありのままを黒子に聞いてもらうのは物凄く恥ずかしい。だからといって知り合いの話なのだがと曖昧に説明したところで、嘘をつくのが苦手な緑間がボロを出さない保証はないし、観察力に優れた黒子を誤魔化せるとは到底思えない。
目の前の黒子は、怪訝そうに緑間が口を開くのを待っている。
どうしたものかと逡巡したのだが、緑間は諦めて一度はぁとため息をついた。相談を受けてもらうのに取り繕っても仕方ない。気持ちを落ち着かせるためにおしるこを一口啜ってから、緑間は意を決して話し始めた。
「……実は」
緑間はできるだけ詳細に、先日の顛末を黒子に伝えた。
普段高尾と下校しているのだが、その日はたまたま高尾がいなかったこと。
いつも一緒に遅くまで居残り練習をしている宮地が、その日は送ってくれたこと。
だが緑間は宮地が緑間を送るのにギリギリまで難色を示していたこと。
送ってくれる途中、コンビニで宮地がおしるこをおごってくれたこと。
暗い路地にさしかかってから宮地の機嫌が悪くなっていったこと。
可愛げのない自分が襲われるはずがないと断言したところ、突如宮地が豹変して襲われたこと。
口付けられそうになって身構えた直後に、実は緑間のことを案じた宮地が一芝居打ったのだとわかったこと。
びっくりして緑間が泣いてしまい、宮地に慰められたこと。
そして、宮地に送り届けられた後から、ずっと宮地のことが頭から離れないこと。
それらを余すことなく黒子に語り終え、緑間は羞恥心もあり深く息を吐いた。結構な時間喋っていたせいで喉が渇く。ぬるくなってしまったおしるこに口をつけて、緑間は漸く一心地付いた。
「てっきり高尾君のことを相談されるのかと思っていました」
緑間の話を咀嚼するように、相槌を打ちながら聞いていた黒子の第一声がそれだった。予想外だったと言いたいらしい。
「何故高尾なのだよ?」
「いえ、何かされたのかと」
「だから何故高尾に何かされなくてはいけないのだよ?」
しきりに首を傾げる緑間へ、このままでは平行線だと早々に理解したのか、黒子は大仰に嘆息しただけだった。
「まあ高尾君のことは置いておくとして、話題を元に戻しましょう。宮地さん……でしたか。確か男バスのSFの方でしたね」
「ああ」
「高尾君とはまた違った形で、気遣いのできる頼れる良い先輩のようですね」
「……そうなのだよ。努力家で優しい人なのだよ」
本人の前では絶対に口にしたくはないがなと、すましたそぶりを見せるものの、緑間の持ち前の硬質な雰囲気は崩れ、ふわと柔らかさを纏う。珍しい緑間の姿に、黒子は目を見張った。
「だが、この間から頭が宮地さんのことでいっぱいになってしまって、色々手に付かずに困ってしまっているのだよ……。黒子、私はどうしたらいいのだろうか」
穏やかだった空気から一転、眉を八の字にして頭を抱えた緑間が泣きそうな様子で呟く。よっぽど切羽詰っているのだろう。黒子に縋りつくような視線をよこす緑間などレアものだ。
黒子でなくても、緑間の状態は一目瞭然だった。
「うーん、これはどちらかというと桃井さんとか黄瀬君向けの内容だと思うのですが……」
「桃井と黄瀬か?」
「はい。しかしボクが言ってしまっていいものか……」
「いいから言うのだよ!」
間髪いれずに緑間がせかすと、渋々と黒子が言葉を紡いだ。
「……草津の湯でも治せないというアレです」
「え……?」
ぱちり、と緑間の長い睫毛が瞬く。
「緑間さんは宮地さんに好意を抱いているということです、恋愛的な意味で」
「……え?」
あっけに取られた直後、ぼっと緑間の顔に火が灯った。
「いや……そんな……え、まさか……」
狼狽した緑間が、慌てて首を振って否定をする。そんな自分を落ち着かせるように、頬に手を当てると、血が全身を駆け巡っているのか酷く熱かった。
「往生際が悪いですね。恋愛偏差値低すぎですよ、緑間さん。知ってましたけど」
「……面白がっているだろう、黒子」
「ええ」
くすりと、小さく黒子が笑む。緑間は恨みがましそうに睨み付けるが、彼女はどこ吹く風だ。
「頭がその人のことでいっぱいになったり、その人のことを考えるだけで胸がドキドキしたり、恥ずかしいのに心が暖かくなったりするのは、全部その人のことが好きだからですよ」
「ならば、黒子も……そうなのか?」
「ボクですか?」
「黒子も……火神のことを考えると、そんな風になるのか?」
黒子と火神が少し前から交際を始めていたことを思い出して、緑間は問うた。緑間の言葉に一瞬面食らったものの、黒子はゆっくりと頷く。
「はい、大好きですから」
普段無表情の黒子が、目元を和らげた。まるでその気持ちを慈しむように胸に手を当てて、小さく微笑む。それはとてもキラキラしていて、幸せそうな姿だった。
「私が……宮地先輩を……好き……?」
まだ実感がわかないのか、緑間はぎこちなくひとりごちる。好き、の一言を呟いた瞬間、胸がきゅんと高鳴って、恥ずかしさでいっぱいになって、何だか酷く落ち着かない。
「ここからは、ボクがアドバイスできることはありません」
「えっ!?」
緑間があからさまに不安げに顔色を変えてうろたえた。がたがた、と派手にイスが鳴る。
黒子は安心させるように緑間の手に己の手を重ねた。
「落ち着いてください。大丈夫ですよ。まずは、緑間さんが自分の気持ちと向き合うことから始めてはどうですか?」
「自分の気持ちと、向き合う……」
緑間は黒子の言葉をかみ締めるように鸚鵡返す。黒子と視線を絡ませると、彼女はこくりと頷いた。
「……ということだそうですが、いいんですか?高尾君」
余裕なく心ここにあらずな様相の緑間がふらふらとマジバから出て行ったのを確認した後、黒子はじっと視線を強くして、緑間の背後の席に向けて声をかける。すると、すかさずけらけらと軽い声が上がった。
「あっれー。テッちゃんにはバレバレだった?」
「白々しいですね。ずっとそこで聞き耳を立てていたくせに」
「あはは」
腰を捻ってちらりと上半身を覗かせた高尾が、笑いながら黒子に向かって手を振る。そして立ち上がると、自分のトレイを手に黒子の前の席へと移動してきた。
「意外でした」
「んー?」
「てっきり、緑間さんとそういう関係になるのは高尾君なのだとばかり。好きなんでしょう? 緑間さんのこと」
黒子の指摘が痛かったようで、高尾の顔が弱弱しくふにゃりと崩れた。
「うん。オレもまさかの伏兵の登場に驚いている。だけどさー。人の気持ちばっかりはどうにもならないじゃん? オレ、真ちゃんのこと大好きだけど、宮地サンのことも好きなんだよね」
テーブルに突っ伏して、少しだけ困ったように高尾は笑った。
「だから真ちゃんが幸せになってくれれば、オレは当面相棒っていう立場でもいっかなーって思うんだ」
「下僕じゃないんですか?」
「ひどっ! でもあながち否定できないところが辛っ!」
おどける高尾に、黒子が穏やかに表情を綻ばせた。
「本当、お人よしですね、高尾君は。緑間さんにはもったいないくらいですよ」
「へへっ、オレに惚れるなよ?」
「ボクには火神君がいますので、ありえません」
「ちぇー、ノるくらいしてくれたっていいじゃん」
ぶーと口を尖らす高尾をにべもせず、黒子は残っていたシェイクを飲み干した。
「ところで、その宮地さんは、緑間さんのことをどう……?」
「ああ、うん、気にかけてるというか……多分好きだと思うよ」
酷な話題かと思ったのだが、好奇心が勝って高尾に尋ねてみたところ、あっさりと高尾は首肯した。
「でもまあ? ツンデレ真ちゃんとツンギレ宮地さんのことだから、どう転ぶかはわかんないし? さっきので宮地サンのこと意識しまくっちゃった真ちゃんが、どんな行動にでるか見ものだなー」
「へ?」
「あ。オレ、諦めるだなんて一言も言ってないぜ。もし真ちゃんを悲しませたりしたら、攫っていく気満々よー?」
にやり、と楽しそうに猛禽を思わせる瞳が細められる。鋭い光を帯びたそれは、どことなく性質が悪く、虎視眈々と獲物を狙う目だ。飄々と見せているくせに、高尾は油断なく隙を窺っている。もし緑間が泣くようなことがあったら、すぐにでも修羅場に突入しそうな剣呑な雰囲気を醸し出す彼に、黒子はため息をついた。
(なんというか……恋愛経験値が薄い人によくもまあ刺激的な……)
黒子は天井を仰ぐと、緑間と宮地が波風立たずに上手く行きますようにと、ただそれだけを祈るのみだった。
宮地清志は非常に頭に来ていた。
三日。今週に入って既に三日。先週から数えると六日である。
何のことかというと、宮地が緑間とろくに会話ができなくなってから経過した日数である。
先週、宮地は諸々あって帰り道で緑間を泣かせてしまった。ただ、別れ際に緑間にも気にしないでほしいと言われ、割と和やかなムードでさよならと挨拶を交わしたので、宮地も内心ほっとしていたことを覚えている。
次の日は朝から居残り練習まで、何かを警戒した高尾がべったりと緑間にくっついていたため、普段以上に会話ができなかった。土曜日の午前練習は言わずもがな、午後に緑間は約束があると帰宅してしまったため、結局大した接触を持つこともできずに休みを迎えてしまった。
さすがにやりすぎたかなと反省していたこともあり、緑間とギクシャクしてしまうことは覚悟の上だった。ただ少し時間を置けば、そのうち自然と前みたいに他愛のない話や憎まれ口を叩けるようになるだろうと、そんな風に宮地は気楽に考えていた。その程度の関係は、彼女と築けているのだと思っていた。
そして休みが明けた月曜日。
宮地の予想と反して、何故か緑間のツンが増していたのだ。増したというよりも、入部当初のような頑なさを取り戻していた。休みの間に一体何があったと宮地は突っ込みたくなった。
緑間はあからさまに宮地との接触を拒むようになり、視線を合わせなくなった。ただでさえ部活の時以外は大した接点もないのだ。今の状況が自分にとってあまり芳しくないことを、宮地はひしひしと感じていた。
宮地が緑間への好意を完全に意識したのは、やはりつい先日の出来事が切欠だった。
元々、気位が高くて気に食わない、けれども日々の努力だけは買っている、そんな後輩の少女の位置付けでしかなかった。そのうち徐々にだが頑なさを和らげるようになった緑間は、高尾が傍らにいたせいも、互いにバスケ馬鹿なせいもあったのだろうが、思ったよりも話しやすかった。そして若干世間ズレしていることに、いつしか危うさを覚えた。面倒見のいい宮地は、緑間の言動に大丈夫かこいつ?とよくハラハラさせられていた。何となく目が離せなくなったのはその頃からだ。
高潔で、努力家で、真面目で、生意気で、でも実は酷く不器用で、素直じゃなくて、天然で危なっかしくて、まだまだ融通が利かないところもあるけれども、ほのかに微笑を見せてくれるようになった凛とした少女。あと、正直顔が大変宮地好みの清楚さを兼ね備えていることはここだけの話である。
緑間のことを踏み込んで知るたびに、悪い印象が少しずつ書き換わっていく。
とどめは先日の出来事だ。大きな瞳にうっすらと涙を浮かべて、白磁の頬を薔薇色に染めはらはらと泣いている緑間があまりにも艶やかでいて可愛く、泣かせたくないはずなのにもっとその姿を見たいと、泣かせてみたいと思ってしまった。それと同時にこんな表情を見るのは自分だけでいいと強い独占欲が生まれた。完全に頭がいかれているなと、そこで宮地は緑間への感情が何であるのかを自覚したのである。
好意を抱いていると気づいてしまった少女に、いつまでも避けられるのはさすがの宮地も辛い。
どうしたものかと様子を窺っていたのだが、明らかに警戒された雰囲気に宮地の苛立ちも募っていく。一日経ち、二日経ち、緑間の態度に逆に理不尽な憤りを覚え始めていた。
――宮地清志は非常に気の短い人間であった。
「おい、緑間!」
放課後の部活動。外周とウォーミングアップを終え、軽くパス練習をこなした後の休憩時間に、宮地はタオルで汗を拭っている緑間に呼びかけた。緑間は宮地の声に、顕著に反応し、ぴくんと肩をはねさせる。
「……何ですか。集中が乱れるので、気安く話しかけないで欲しいのだよ」
ツンと済ました言葉を返す緑間は、三日間この調子でやはりどことなくよそよそしい。顔を俯かせて、視線を極力宮地に合わせようとしない。
「今は休憩中だろうが」
「こっ、これから個人的にシュート練習をしようと思っていたのです!」
更に何かと理由をつけて宮地の傍を離れようとする。気に入らない。
「あのなあ。何が気にくわねぇのかしらねぇけど、ちゃんとこっち向いて喋れ」
イラついた感情のままに、宮地は両手で緑間の頬を緩く挟むと、伏せている彼女の顔を強制的に持ち上げて、無理やり視線を絡ませた。
久しぶりに見た眼鏡の奥のエメラルドの虹彩は、相も変わらず妙なる煌きを帯びている。
一瞬目を奪われていると、緑間の長い睫毛がふるりと震える。
驚きに見開かれた双眸が、ぱちりと瞬いた刹那、緑間の顔に鮮やかな朱が散った。
「……は?」
宮地の掌へ、じわりとした熱が伝わる。
緑間は今しがたのつんけんとした言動が嘘のような表情で戸惑っている。唇を小さくわななかせ、眉尻を下げ、微かに潤んだ瞳で宮地を見上げていた。
想定していなかった反応に、宮地がたじろいで固まっていると、嫌々と身体捩って宮地の手を外し後ずさった緑間が、泣きそうな面持ちで叫んだ。
「みっ、宮地先輩の馬鹿っ!!」
わけがわからずあっけに取られている間に、緑間は身を翻して体育館から一目散に駆け出していった。
その背中をうっかり見送って、はっと我に返った宮地も足を動かす。ぷつん、と頭のどこかの糸が切れた音が聞こえた。
「先輩に向かって馬鹿とは何だ! 待ちやがれ、緑間! テメェ、轢く!!」
怒声を撒き散らして、フローリングを力強く蹴る。逃走した緑間を追いかけて、宮地も体育館を飛び出した。
急に上がったけたたましい声と体育館から駆け出していった二人に、何ごとかと休憩中の部員たちが興味本位の視線を入り口の方へと投げてくる。
スタメンの三人は顔を見合わせると、参ったなと苦笑を交わした。
「大坪サーン。二人がどっかいっちゃいましたけどいいんですか?」
「あー……全く、宮地も大人気ないなあ」
「犬も食わない何とやらは放っておけ」
「ちょwwwまだwww夫婦じゃないっすよwww」
「ほら、もう少しで休憩終わりにするぞ。各自きちんと水分補給しておけよ」
ぱん、と大坪が一つ手を打つと、ざわついていた館内も後ろ髪を引かれながらも整然としていく。
もはやある程度の奇行には慣れっこになってしまっていた秀徳高校バスケ部にとっては、今日も些細なまでに通常運行だった。
体育館から渡り廊下を経由して、校内に入る。バッシュで外に出てきてしまったことを悔やんだが仕方ない。ばたばたと激しくやかましい足音を立てて、宮地は先行する緑間に続いた。二人の距離はおよそ五十メートル。廊下を走ってはいけませんなどと、気にしてなどいられない。
「待ちやがれ! 緑間!」
その叫びにちらりと背後を見返った緑間は、必死の剣幕で追いかけてくる宮地に、血相を変えてひっと息を呑んだ。
「何で追いかけてくるのだよ!!」
「お前が逃げるからだろ!」
「私のことなど放っておいて下さい!」
キュキュキュ、とバッシュがスキール音を立てる。緑間の方がやや小回りが利くとはいえ、男と女のコンパス差もある。徐々に、だが確実に距離は詰まっていく。しかし緑間が無造作に階段を上り下りしているため、なかなか捕まえきれない。
悲しいかな二人とも体育会系の人間であり、日々これでもかと身体を鍛えている全国区の選手である。体力も瞬発力も持久力もそれなりについているおかげで、物凄い勢いのスピードでの追いかけっこをする羽目になった。
放課後になってから時間がそこそこ経過しており、校内に殆ど人がいなかったことが唯一の救いと言えよう。万が一衝突などでもしたら危ないどころの話ではないし、何よりこんなところで白熱したデッドヒートを繰り広げているどうしようもない姿を拝まれなくて本当によかった。
ただ、遁走劇はやはり宮地に利があった。一年の教室前の直線廊下に差し掛かって、一気に距離を縮める。時折ちらと背後を窺ってくる緑間が、段々迫ってくる宮路の姿に可哀想なくらい怯えているのが見て取れた。多分緑間でなくてもこの状況は正直恐怖でしかない。
「緑間! 止まれコラ!」
「止まりません!!」
慌てた緑間が更に速度を上げて、左に折れる。人気のない実習棟へと繋がる連絡通路を走り抜けて、また階段を猛然とダッシュしていく。
もうどのくらい全力疾走を続けているのだろう。はぁはぁと荒い息継ぎを繰り返しながら、きついなと宮地がちっと舌打ちをする。
「あっ!」
と、不意に先を行く緑間がふらりとバランスを崩し、階段に躓いた。足をとられたものの、かろうじて踊り場でたたらを踏む。階段から転げ落ちなくてすんだが、そのロスが仇となった。
宮地は契機を逃すまいと、ラストスパートとばかりに階段を三段飛ばしで駆け上っていくと、よろけた体勢のまま壁に手をついていた緑間を背後から身体で囲い込んだ。どん、と勢いよく壁に両手を差し込んで緑間の逃げ道を塞ぐ。びくり、と彼女が肩を竦ませた。
いたちごっこは終了した。
お互いに乱れた呼吸を整える。静かな校舎に、二人の息遣いだけが響いた。
「緑間」
「……」
緑間は返事をしない。まだ息苦しいのか、肩が薄く上下している。その上を新緑色の髪の毛が僅かに跳ねる。気だるげな首筋にぺたり、と一房髪が張り付いていた。走り回ったせいで、うっすらと汗をかいてしまったからだろう。
「緑間、こっちを向け」
「……嫌、です」
なおも緑間は振り向くことを拒んだ。ふるりとポニーテールが左右に揺れる。その先にあるうなじから覗く上気した肌が、やけに艶かしく映る。
こういう無防備なところをどうにかしてほしいと、むらむらしてしまった宮地は全てを緑間に責任転嫁した。
ずっと緑間とまともに話せていなくて、苛立ちが募っている宮地の目の前で、高尾が纏わり付くことは許している。自分が近づけば、近づいた分だけ緑間はツンとそっぽを向いて離れてしまうのに。緑間と高尾は最初からそうだったとはいえ、恋心を自覚してしまった宮地の嫉妬心は絶好調に煽られている。
そのくせ、さっき見せた可愛い表情は何だ。馬鹿って何だ。誘っているのか、おい。
そんな積もりに積もった悶々とした気持ちと、全力疾走のせいで、宮地の頭はとんでいた。
もう、色々と我慢の限界だった。
「こっち向かないなら、こうする」
宮地はそう宣言すると、緑間の白いうなじにちゅと口付けを落とした。
「んっ!?」
背筋をぴりっと走り抜けた感覚に緑間はぎょっとして、反射的に身体をびくつかせた。すぐさま、ガードするように首筋を両手で覆われる。続きを妨げられて、宮地はちっと舌打ちをした。
「なっ! 何を…!」
わなわなと震える肌は、羞恥で真っ赤に染まっている。初心な彼女のことだ、こんなことをされるのは初めてなのだろう。
耳まで赤くなっているのが愛おしく思えて、誘われるように宮地は緑間の耳を唇でやわく食んだ。
「ひぁ!?」
緑間の口から、聞いたことのない高くて甘い声が漏れる。それに気を良くした宮地は少しだけ調子に乗った。
「無防備なお前が悪い」
「何を言っているのだよ!?」
「こっち向かないと、ずっとこうするぜ?」
緑間の耳元で低く囁く。そのまま、つ、と耳の輪郭をなぞるように舌を這わせて、たどり着いた耳朶にちゅっとキスをする。緑間の肩がひくひくと弾んだ。そういえば、緑間は耳が弱いようだったことを宮地は思い出した。
「や、やめて下さい! 向きます! 向きますから!」
耐え切れずに緑間があっさりと白旗を揚げた。いじめすぎただろうか。個人的にはもう少し頑張ってもらっても良かったと宮地の思考は問題発言をかましていたのだが、それは置いておくとして。
おずおずと振り返った緑間は、まなじりに薄く涙の膜を浮かべ、羞恥に肌を桃色に染めている。だがやはり視線は宮地から逸らされたままだ。
「何で目を合わせねぇんだよ」
「先輩には関係ないのだよ」
唇を一文字に引き結んでつんと緑間が返した。強情だ。そういわれると無理にでも向かせたくなる。宮地は再度緑間の頬に両手を添えると、強引に宮地と視線を合わせた。
「こんだけ避けられて関係ねぇわけあるか。刺すぞ」
う、あと小さく呻いて、緑間の顔が益々赤みを帯びていく。緑色の虹彩が戸惑いがちに伏せられるのを、宮地の瞳は見逃さなかった。
「離してください!」
「嫌だ」
「大人げないのだよ!」
「お前にだけは言われたくねぇわ!」
喧嘩腰の流れに開き直ったのか、緑間が息を吸い込んだ後、きっと睨み付けてくる。だが涙目なのであまり迫力がない。迫力がないというか可愛い。
お互い強情を張ったまま、にらみ合いととりとめもない口論が続く。
しかしこのままでは平行線だ。少しだけ頭に冷静さが戻ってきた宮地は、押して駄目なら引いてみることにした。緑間と過ごしてきてわかったことなのだが、ツンデレな彼女は強気で押すと押し返してくる。けれども押した後に急に引かれると、ツンの反動か逆に弱くなるのだ。
宮地は声を潜めて、眉を僅かに歪めた。
「何で、逃げる?」
「……っ!」
「……そんなに俺が嫌か?」
案の定効果は覿面だったようで、緑間は動揺を顕わにした。口をはくはくとわななかせながらも、きまりが悪そうにふるふると小刻みに顔を振って否定の意思を表した。
「ずるいのだよ……先輩は私を振り回してばっかりなのだよ」
「はぁ?」
振り回されているのはこっちのほうだと言いたいのを宮地はぐっとこらえた。
「どう接したらいいのかわからなくて、頭ぐちゃぐちゃで……やっと気持ちが落ちついてきたのに、先輩はどうして簡単に私の心を乱すのだよ!?」
混乱しているのか緑間が漏らした言葉に、宮地は目を見開いた。もしかして避けたりツン成分が増していたのは、宮地を意識しすぎてどうしたらいいかわからなくなっていたせいなのか。
――それの意味するところはつまり。
「お、おい、緑間?」
「私のような可愛げのない女なんて、放っておいたらいいでしょう!?」
そうまくし立てた緑間の表情は、発言とは裏腹に酷く傷ついているように見えた。
ぐ、と顔に力を入れていやいやするが、宮地の拘束から逃れることができずに緑間は歯噛みする。緩んでくる涙腺を必死にこらえて、視線を宮地から逸らすようにして、彼女は悔しげに左手の甲を己の唇に当てた。
素直になれない少女にたまらなくなって、宮地は盛大なため息をついた。
「ああもう! お前はほんっと可愛くねーし馬鹿だし鈍いし無防備だし意地っ張りだし……」
宮地の一言一言に、びく、びく、と緑間が過剰な反応を見せて身体を震わせる。
「でも、そんな顔してそんなこと言うなよ。危なっかしくて放っておけねぇんだよ! いい加減気づけよ!」
うっすらと浮かんだままの涙を軽く親指で拭って、緑間の顔を優しい手つきで持ち上げる。真剣な面持ちで緑間を覗き込むと、彼女は涙に濡れた睫毛をぱちぱちと瞬かせた。
「……先…輩?」
「好きだ」
宮地からの告白に、緑間が信じられないと言わんばかりに呆然としている間に、前髪をそっとかき上げ額にゆっくりと口付けた。とっさにぎゅっと閉じられた目から一筋頬を伝った涙を吸い上げてから、もう一度優しく額にキスを送る。緑間の全身が、緊張からかガチガチに硬直していくのがわかる。
唇を離すと、そろそろと緑間の双眸が開いていく。エメラルドを想起させる瞳に、自分の姿が映ってまた消えるのが何となくいいなと、宮地は場違いなことを考えていた。
「危機感持てって、言ったよな?」
身体をいっそう密着させ、息が触れそうなほどの距離まで顔を寄せると、じっと見つめて問いかける。まるでこの間の状況の再現だなと、宮地は内心ではっと嘲笑った。
少しだけ力を緩めて、緑間が逃げられるだけの隙を残してやる。
「今度は目を閉じても止めてやんねぇからな」
緑間の潤んだ虹彩が揺れる。だが、僅かに体の力を抜いて宮地に身を任せると、恐る恐るといった体で、まるでスローモーションのように瞼が閉じられた。
「……先輩なら、いいのだよ」
――触れた唇は柔らかかった。
二人は額に掌を当て、沈鬱な顔つきで深々と嘆息を漏らす。
「あーもー何やってんだ……」
「一人で空回って取り乱していた自分が馬鹿みたいなのだよ……」
「体育館の扉を開けた瞬間のみんなの目が恐ぇ」
「絶対にからかわれるのだよ」
「仕方ねーだろボケ。お前が逃げるからだ」
「先輩のせいなのだよ! 恥ずかしい」
「うっせーよ!」
「はぁ……部活に戻りたくないのだよ」
「俺だって戻りたくねぇよ……」
体育館にたどり着く直前までお互いがお互いに悪態をつきながら、それでも繋がれた手が解かれることはなかった。