ワートリ二宮隊小話
吹き付ける風が冷たさを含み、日差しも柔らかく鈍いものへと変わった。いよいよ寒さが厳しさを増してくる。
秋から冬へと本格的に季節が移る頃、学生にとって通算五回目となる大きな戦いが始まろうとしていた。
「これはヤバい……」
発表された期末テスト範囲と日程を前にして、犬飼は頭を抱えた。
犬飼くんの期末テストがヤバいお話
二宮隊のA級における立場が不動のものとなり、犬飼も個人ランク戦に誘われる機会が以前より大幅に増えた。
犬飼の世代はとりわけマスター級の隊員を多く擁し、各分野において特筆した実力を有する者たちが集まっている。そういった手強い相手と渡り合えることに背筋はゾクゾクと震え、鎬を削ってやるかやられるかの死闘を繰り広げるのは、いつだって心が躍った。いっそ、快楽と言い換えてもいいほどに。
銃の腕を磨き、自分が強くなっていく感覚は純粋に楽しかったし、自信にも繋がる。それが二宮隊のためになるのだから、いくらでも頑張れた。
ただ、戦うことにいささかのめりこみすぎていたのは否めない。
暇があれば戦闘訓練に明け暮れていたおかげで、犬飼の個人ポイントはかなり上がった。当然のことながら、それに比例して成績が下がった。
訓練の疲れが溜まっていたり、気分が高揚して眠れなかったりが続けば、睡眠不足は自然と学校で補う羽目になる。要するに、授業中盛大に寝てしまっていたのだ。
普段、犬飼の成績はそこまで悪くはない。寧ろ、同級生の顔ぶれを考えると、上から数えた方が早かった。加えて、要領の良さも相俟って、このくらい大したことないと高をくくっていたのもある。
しかし、いざ問題集をめくってみても、授業を聞いていなかったせいでさっぱりわからなくなっていた。ノートはミミズがのたくったような文字が書かれており、解読不能。あの時の自分を殴りたい。後悔先に立たずを痛感する犬飼だった。
先日行われた小テストの結果は、言うまでもなく悲惨なもので。犬飼はそこでやっと目の前の現実に立ち戻った。
「お前はソツなく何でもこなしてそうだと思っていたけど、意外だな」
どんよりと重たい空気を纏い、覇気の薄い犬飼を気にかけた荒船にそんな事情を説明すれば、ぶはっと声高に笑われた。犬飼は不満げに頬を膨らませる。
同じ学年、同じ学校、さらに入隊が同時期なよしみもあり、犬飼と荒船は気心知れた仲だ。学校帰りに連れ立ってボーダー本部に向かいながら、その日にあったことや、これから行う訓練のこと、果ては真面目な相談から下世話な話まで、色々な雑談をよく交わしていた。
「べっつにー。荒船ほど頭いいわけじゃないしさ」
いかにも体育会系ですといった風情なくせに――実際体育会系なのだが――犬飼の隣を歩く男は、こう見えて理論派の筋肉信奉者だ。尊敬する人が玉狛の木崎レイジだという、完璧万能手を目指している彼は、文字通り文武両道に秀でている。
「ねえ、荒船セーンセ?」
「……他を当たれ」
「その『他』がないんだよ!」
猫なで声で色目を使うが、にじみ出た下心はすげなくあしらわれる。
進学校に通っているボーダー隊員で、犬飼の同年代は荒船と鳩原しかいない。その中で一番成績が良いのが荒船だ。鳩原は成績にムラがありすぎて、正直当てにできない。
「馬鹿言うんじゃねぇよ。俺が当真とカゲの面倒見るだけで手一杯なのは、お前だってわかってんだろ」
「くっそー。カゲ、後でランク戦でガタガタ言わす」
「カゲだけかよ」
犬飼は思わず悪態をついた。八つ当たりなのは、重々承知だ。
成績のよさを見込まれた荒船や今は、忍田からテスト前に当真や影浦、国近の勉強を見てくれと切実に頼まれている。この三人、己の欲望に忠実すぎるため、滅多に勉強に手をつけず成績が壊滅的だった。
ボーダーに所属しているせいで学業がままならないのではなどという、外野からいらぬ集中砲火を避けたかったのもあるが、学生の本分は何をおいても勉学だ。防衛も確かに大事だけれども、一度しかない学生時代も大切にして欲しい。殊更、男子はランク戦に熱中しやすい。戦いに傾倒して、学校をおろそかにしては本末転倒。ボーダー上層部だって、きちんと考えている。
尊敬する大人たちが口を酸っぱく勉強しろと言うのは、自分たちの経験もあってか。学生生活に対する暖かい心遣いや配慮が、嫌というほど伝わってくるから、特に上にも横にも繋がりが強いボーダー隊員たちに、団結のようなものが生まれるのは自然なことだった。
犬飼の世代はテスト時期になると、同輩を巻き込み問題集を持ち寄り、荒船主催でテスト対策勉強会を開催している。低空飛行組がどうにか赤点をギリギリで回避できているのは、荒船たち成績上位組の涙ぐましい努力の結果である。
いつもなら犬飼も勉強会で教師側の立場になっているのだが、申し訳ないけれど今回は他人を見てやる余裕などなかった。
「あー、マジどうしよ……」
自業自得とはいえ、期末テストまでそこまで猶予もない。持ち前の明るさは鳴りを潜め、しょんぼりと肩を落としてさめざめと嘆く犬飼をさすがに哀れんだのか、荒船は励ますようにぽんと肩を叩いた。
「ま、流石につきっきりってわけにはいかないが、どうしてもわからない問題くらいなら持ってこいよ。見てやる」
「荒船……」
ふっと口角を上げて、頼もしく笑う荒船に背後に後光が差した。自分だって忙しいのに、兄貴肌の荒船は決して犬飼を見捨てない。その気持ちがありがたくて、犬飼はくすぐったさに、にやけてしまった。
「……ちょっとときめいたわ」
「おい、やめろ」
指を組んで頬の脇に添え、キラキラした目で小首を傾げて茶化したのは照れ隠しもあって。荒船は可哀想なものを見るような目で、犬飼を遠慮なくどついた。
荒船はああ言ってくれたけれども、この件に関して彼の負担は大きい。教えを請うてみたものの、これ以上余計な苦労をかけるのは犬飼の本意ではなかった。
「お疲れ様でーす」
荒船と分かれ、さてどうしたものかともやもやした気持ちを抱えながら二宮隊の作戦室に入ると、鳩原が机に向かって教科書を広げていた。普段、作戦室に宿題の類を一切持ち込まない彼女なだけに珍しい。
「鳩原、どうしたの。勉強中?」
「ああ、犬飼くん。お疲れ様。そうなの」
「期末の勉強してんの?」
「ちょっと成績が芳しくなくて……」
シャーペンを動かす手を止め、あはは、と乾いた笑みを浮かべて、鳩原が困ったように眉を下げた。
どこかで聞いたような話に、犬飼はきょとんと目を瞬かせた。
「ユズルがね、すっごくできる優秀な子だから、ここのところつい指導に熱が入っちゃって」
「ユズル……っていうと、鳩原の弟子の、確か絵馬だっけ」
「うん、そう」
鳩原には、最近中学生の弟子ができた。その弟子がまた懐いてくれるらしく、子ども好きな鳩原にとっては可愛くてたまらないのだろう。絵馬の話をするときの鳩原は、随分と生き生きとしていた。今だって、弟子がどれだけすごいのかを身振り手振り交えて語ってくる。親馬鹿ならぬ、師匠馬鹿だ。
聞けば、絵馬の気が済むまで訓練に付き合ってあげていた上に、自身に課した訓練もきっちりこなしているせいで、帰宅が遅くなり、勉強がおろそかになったとのことだ。鳩原らしいといえばらしい。犬飼のように授業中に寝るという失態はおかしていないものの、予復習の時間が削られたのだろう。
「何がヤバいの?」
「英語……」
「俺、古典と世界史」
お前もか。互いの視線は、暗にそう語っていた。
それにしても、同じ境遇の人間がいるのは心強い。一人じゃないという事実が、犬飼の心に安堵を生む。心強いが、事が事なだけに情けないことには変わりないのだが。
二人ともどちらかといえば理系科目には強い。だから、当真たちみたく全教科壊滅的という散々な事態にはならないのだが、普段せいぜい平均点程度にしかとれない苦手な科目がだいぶ怪しかった。
「ただでさえケアレスミスが多いから、これ以上落とせないんだよね……」
鳩原は、頭を抱えてううーと唸った。犬飼よりも鳩原のほうが切実そうだ。
頭の回転が悪いわけではないのだが、鳩原は時々物凄くうっかりなミスをする。答えは間違っていないのに、解答欄を一つずらして書き込んでしまったり、計算式の途中の簡単な足し算を何故か間違えたりなどザラだ。凡ミスを重ねるあまり点数に繋がらず、いつもの曖昧な笑みを浮かべつつも落ち込んでいる姿を、犬飼は時折見かけている。要領が悪くて損をしているタイプだった。
「「赤点なんて取ったら二宮さんに殺される……」」
至極真剣な表情で、犬飼と鳩原は一言一句違わぬ言葉を呟いて、深々と嘆息した。考えることは一緒だ。
殺されるというのは、もちろん比喩でしかない。だが、少なくとも、ただでさえ恐いと評判の冷淡な仏頂面に青筋を浮かべて、冷ややかな目線で、心を的確にえぐる罵倒を含んだ長時間の説教くらいは確実にする。
想像するだけで悪寒がした。鳩原も、二の腕をさすって首を竦めている。
犬飼は鳩原の隣の椅子に腰掛けて、両手をぱちんと合わせて頭を下げた。これはもう、なりふり構っている場合ではない。
「ノート取っている? コピー取らせてくんない?」
「……そこから? 別にかまわないけど、本当に珍しいね、犬飼くん」
「俺も、ちょっと調子に乗ってランク戦しすぎて、授業中寝てた」
「わー……。そういえば最近、上がるの遅かったもんね」
「鳩原はいつも遅いけどな」
時間があえば他のメンバー含めて一緒に帰るけれど、遅くなった時には、主に二宮やら東やら当真やら、時に木崎が鳩原を送っていく。そうそうたる顔ぶれだ。一人で帰れると鳩原は遠慮するものの、夜道を女の子一人で帰すわけにもいくまい。彼らを何度も送迎に使いながら、早く帰れとどやされても、なお訓練を続ける鳩原は、結構図太いのではなかろうか。
鳩原は鞄の中からノートを二冊取り出すと、犬飼に差し出した。
「はい。古典と世界史。見づらかったらごめんね」
「サンキュ。助かる。返すの明日でも平気?」
「うん。明日はどっちも授業ないから大丈夫だよ」
ぺらりとノートをめくらせてもらうと、小さめの丸っこい少女らしい文字が罫線間を埋めている。デコデコとしたカラフルな色分けなどはされていないが、要点はきっちり抑えているシンプルな作りのノートだった。
「俺も鳩原見習おっかな……」
二宮が来てミーティングになる前に少しでも挽回しておこうと、思い立ったが吉日で、気を引き締めてテスト範囲のおさらいを始めてみる。
しかし、開始早々、犬飼は心がくじけそうになっていた。
「やばい、わからん。世界史はともかく、古典エグい……」
「あたしも……。頭ごちゃごちゃになってきた……」
問題集に、トントンとシャーペンの先を弾ませる。問題を解く手が進まず、わからないことが多くつっかえてばかりで一向に捗らない。鳩原も似たようなもので、先ほどから英和辞書を引きつつ首を傾げていた。
教科書をざっと読んだけれども、元々苦手よりの教科だ。一度目を通した程度でどうにかなるのなら、世の中予習復習という言葉はいらないのである。日々の積み重ねが大事なのは、訓練も勉強も一緒だ。
とはいえ、戦闘訓練ならいくらでも身が入るというのに、勉強はなかなかモチベーションが上がらない。苦手科目というのも拍車をかけている。とにかく古典は犬飼にとって退屈で、眠気が誘われてしまう。もちろん、勉強することが自分の将来に繋がることくらいわかっているのだけれども。
「何でお互い理系なんだろうな」
「本当。どっちかが文系得意だったら、教え合いとかできたのにね」
言ったところで詮無いことを、鳩原と二人して思わずぼやく。
荒船のように全科目に精通しており、誰にでも教えられるほど、犬飼も鳩原も器用ではなかった。互いの苦手な科目をカバーできれば効率も上がるのに、二人して理系なものだから上手くかみあわない。
犬飼は机にうつ伏せ、べちゃりと頬を押し付けて嘆いた。
「辻ちゃんとひゃみちゃんが、俺らと同い年だったらよかったのに……!」
「何情けないこと言っているんですか、犬飼先輩」
「毎日少しずつ勉強しないからですよ。予習復習は当然でしょう?」
呆れ混じりな視線を送られ、犬飼は正論にうっと言葉を詰まらせた。
犬飼と鳩原に便乗し、一緒のテーブルでお行儀良く勉強を始めた辻と氷見は、テスト前だというのに余裕があるように見える。今更慌てて勉強する必要もないのだろう。特に氷見はこの中でも飛びぬけて優秀で、時折辻からあがる質問を懇切丁寧に解説してあげていた。敏腕オペレーターの名は伊達じゃない。
犬飼ほど熱心にランク戦に参加していなかった辻も、その分をきちんと勉学に当てていたのだろう。後輩たちがこんなにも真面目で頼もしい。
「留年すれば、同じ学年になりますよ」
「うがああああ、それは絶対ないから!」
「先輩と一緒の学年だったら、さぞかし煩いでしょうね」
「ひゃみちゃんまで酷い!」
しれっと辻と氷見から吐かれた言葉が、容赦なく犬飼をえぐる。さすがに留年などしてしまったら、二宮から除隊を言い渡されかねないし、そこまで馬鹿じゃない。犬飼の沽券に関わる。
つい、勉強そっちのけになって雑談を繰り広げていると、幾ばくもせずに作戦室のドアが開いた。
姿を現したのは会議から戻ってきた二宮で、めいめい挨拶の声を上げる。
普段作戦室で各々ばらばらに過ごしている隊員たちが、一堂に会して椅子に座って額をつき合わせている様子に、二宮は一瞬怪訝な表情を浮かべる。だが、机の上に広げられた教科書やノートを見て、すぐに事情を把握したようだった。
「何を騒いでいるのかと思えば、もう期末テスト前か」
「そうなんです」
「捗っているか?」
賑やかにしていたことをちくりと刺した二宮からの問いかけに、辻と氷見はしっかりと頷いたが、犬飼と鳩原は苦笑を返すほかなかった。先輩としての威厳はどこに行ってしまったのやら。
犬飼と鳩原のあまり芳しくない返答に、二宮は目を僅かに見開いた。普段、作戦室でこのような醜態を晒すことがなかったからだろう。荒船同様、意外だと言わんばかりだ。
「お前たちが勉強でどうこういうのは珍しいな」
「いやあ、個人ランク戦をちょっと張り切りすぎちゃいまして」
「あたしも訓練に熱が入っちゃって……」
二人揃って帰宅が遅いことに思い当たったのか、二宮は額に手を当てて、深々とため息をついた。隊員を管理し切れていなかったなどと、変な責任を感じてないといいが。
「……古典と英語か?」
「難を言うと、世界史もちょっと危ないです……」
広げられた教科書から、推測したのだろう。隠す必要もなくなったので、犬飼は遠慮なくピンチな教科を明かした。
「全く……」
「えへへ、すみません。まあどうにかなりますって」
根拠も当てもない言葉でその場をやり過ごそうとすると、二宮はそれを見抜いたのだろう。意外な言葉が、彼の唇から飛び出した。
「仕方ない、俺が教えてやろう。俺の隊から、不勉強な者を出すわけにはいかん」
「ええっ!?」
「いいんですか、二宮さん。二宮さんだって忙しいんじゃ……」
犬飼も鳩原も、思わず目を瞠る。そんな二人を嘲笑うかのように、二宮はフンと鼻を鳴らす。
「問題ない。レポートなら概ね下準備を済ませてあるし、提出直前に慌てるようなやり方はしていない」
「さっすが二宮さん……」
降って沸いた幸運とは、まさしくこのことだ。殺されるだなんて恐々としていた二宮が教師役を買って出てくれるとは露とも思わず、鳩原と顔を見合わせてしまった。
とはいえ、懐に入れた人間に二宮は結構甘いところがある。困っている二人を見て、仕方ないと憎まれ口を叩きつつも、手を差し伸べたくなったのかもしれない。
進学校出身のOBである二宮は、当然のことながら頭の出来も良い。これでテストも安泰だと二宮からの厚意をありがたく受け止めて、犬飼はほっと胸を撫で下ろす。
「ちょっと待ってろ」
すると、二宮が一旦中座し、作戦室を抜けて外に出て行ってしまった。何事だろうかと思いつつも自習を進めていると、暫くして二宮は何故かガムテープと厚手の大きな画用紙を手に戻ってきた。
そんなものを持ってきて、一体何を始めるのかと気もそぞろに窺う。二宮は至極真面目な様子で、画用紙を少し太めの間隔で丁寧に蛇腹に折り始めた。折り目をぴしりと正確に整えるあたり、二宮は几帳面だ。
最終的に七センチ程度の太さに纏められた紙の束は、下部をガムテープでぐるりと止められ、持ち手が作られている。
(アレは……ハリセン)
(本気だ、二宮さんが本気だ……)
鳩原と無言でアイコンタクトを交わし、こくりと息を呑む。一体真顔で何を作っているんだと、突っ込みたいけど突っ込めない。
二宮は、作り終わったハリセンを己の掌に何度も当てて、強度を確認している。ぺしぺしといい音がした。全力で振りかぶられでもしたら、とても痛そうだ。
これは万が一にもうっかり寝ようものなら、容赦なくハリセンが飛び交うことだろう。犬飼と鳩原は戦慄した。
渡りに船とばかりに二宮の申し出に飛びついてしまったが、よくよく考えれば二宮の同輩には太刀川という問題児オブ問題児がいる。太刀川がどれだけ風間を始め、二宮やその他大勢に迷惑をかけているのか。
二宮の教え方が、太刀川を基準といているものだったとしたら――?
もしかして、とんでもないお願いをしてしまったのではないか。犬飼は青褪めるが、もう手遅れだ。
ハリセンの出来に満足した二宮は、それを担ぎ上げるようにして肩をとんとんと叩く。ただでさえ威圧感があるのに、益々近寄り難い。
「やるなら徹底的にやるぞ」
目を鋭く細め、怜悧な美貌ですごんでくる二宮は、トリオン体の黒スーツも相俟ってヤクザもかくやといった剣呑さがある。
「俺が教えたにもかかわらず、赤なんてとったらどうなるか、わかっているな?」
犬飼と鳩原は、スパルタの気配を察知した。
* * *
「……だから、どうしてそこで単語を書き間違えるんだ、お前は」
「あいたっ!」
「焦らずにしっかり書け。ケアレスミスが多すぎる」
ぺしり、と二宮の手からハリセンが閃いた。鳩原の頭頂部に当たったそれは、ぺちりと可愛い音を立てる。
二宮からのハリセンと渋面から迸るプレッシャーが恐くて、これ以上もなく真面目にテスト勉強に取り組んだおかげで、どうにか惨憺たる有様にはならなくて済みそうだ。しっかり取り組んでいれば、むやみやたらにハリセンが飛んでくることもなく、眠気覚ましの一発には丁度よかった。
二宮の教え方は上手かった。犬飼や鳩原が問題に詰まっていると、頃合を見て、徐々にヒントを提示する。解き方を懇切丁寧に教えてくれるわけではないけれど、ちゃんと頭を使って解けるよう、導いてくれるのだ。解法だけを受動的に何となく覚えるのとは違い、自ら答えにたどり着く手助けしてくれるから、多少時間はかかるものの逆にしっかりと身についた。
「お前たちは手がかからなくていいな」
などと言って、何度も忌々しげな様子でハリセンで手を叩き、ぎりりと歯を食いしばりながら酷い形相をしている二宮の心中はお察しする。舌打ちの本気さが恐い。
とはいえ、流石にここ最近の勉強漬けに、いい加減犬飼も疲れが出てしまっていた。
「あー、戦いたい……」
犬飼はシャーペンの手を止めて、無意識のうちにぼやいていた。
テスト前期間中は部活動が停止されるように、学生の個人ランク戦も控えるようお達しが出ている。ただ、一日行わなければ取り戻すのに三日かかるといわれるように、訓練は日々の積み重ねが大事で、街を防衛する任務がある以上やはり勘が鈍ってしまってはまずい。そのため、完全な禁止というわけではなく、摂理をもった行動を求められる程度だ。もちろん、荒船のように、勉強のストレス解消という名目で、ランク戦を行う者もそこそこにいた。
「何だ、もう飽きたのか?」
「……って、すみません、二宮さん」
二宮の声に、はっと我に返る。鳩原に英文法をレクチャーしていた二宮が、集中力が途切れてしまった犬飼をじろりと睨んでいた。
思わず零れてしまった本音は回収できるわけもないので、謝罪を口にして慌てて問題集に取り組もうとしたその時だった。
「なら、戦うか?」
「えっ、いいんですか!?」
よもや話が通じるとは思わず、犬飼はシャーペンを放り投げて勢い良く腰を浮かせた。二宮は憮然と腕を組む。
「そう鬱屈とされては、こちらもたまらんからな。休憩がてらだ」
「あはは……」
「最近しっかりやっていたし、少しくらいならかまわんだろ」
やれやれとため息をついた二宮に、犬飼は後頭部を掻いた。飴と鞭を使い分けられている気がするが、それはそれだ。
久しぶりに降りたランク戦の許可に、犬飼のテンションは一気に上がる。
「鳩原は? どうする?」
「あたしは大丈夫。いつも通り訓練するからいいよ」
鳩原を見やれば、彼女は遠慮がちに手を振った。鳩原は一時的に弟子の面倒を見るのを取りやめて、勉強の時間に当てている。丁度絵馬もテスト期間に入ることもあって、あっさりと提案が受け入れられたのは幸いだった。訓練だけは時間を短くして、それでも続けているらしい。
「相手は俺がやろう。そうだな、出来てせいぜい3戦というところか」
二宮は、ちらりと時計に視線を流す。今日は七時から二宮にだけ防衛任務が入っているので、一時間ちょっとくらいの余裕がある。
せめて防衛任務にでもつかせてくれれば、開いたゲートから現れた敵と戦って鬱憤を晴らせる可能性もあるのに、この時期はテストへの配慮から、中高生組は殆どシフトが組まれていない。
「ランク戦できるならそれだけでも充分です。やったー!」
などと、犬飼が諸手を挙げて喜んだのも束の間。
「――四問目。ロシアがギリシア正教徒保護を名目にオスマン帝国に政治干渉をしたため、1853年に起こった戦争の名とトルコ側の連合国名を答えろ」
「あああえええ、何だっけえええええ!!」
すかさず二宮のアステロイドが発動し、犬飼の周りへ雨のように降り注ぐ。
二宮の投げかけた問いに気を取られたため、防御が一瞬遅れた。開き直って左腕を犠牲にし、シールドを展開させ、どうにかかいくぐる。ひやりと背中に汗が流れた。
次発を打たれる前に、右手に構えた突撃銃でけん制をかけ、二宮が怯んだ隙にその場を離脱する。一つ一つの対応に、気が抜けない。どこかで誤ったら、瞬時に撃ち抜かれることだろう。ミスを見逃してくれるほど、甘い相手ではない。
中距離戦では、圧倒的に二宮にアドバンテージがある。犬飼はそれをどれだけ上手にやり過ごして、相手の死角をつけるかが課題の戦闘だ。
しかし、先ほどから二宮と死闘を繰り広げているはずなのに、全く緊張感がない。それもこれも、アステロイドの片手間に、二宮が世界史の問題を投げかけてくるからである。暗記物だから、このくらい容易いだろうとは二宮の言だ。
戦闘のことだけに思考を巡らせて、精神を研ぎ澄ませ、本能のままに身体を動かす。そうやって勉強から一時でも解放されたかった犬飼からすれば、たまったものではない。ぬか喜びもいいところだった。
「これ、ぜんっぜん、集中できませんって!!」
ぽつぽつと流れてくる二宮からの問題に、犬飼は泣きそうになった。どうしてこうなった。二宮は犬飼の背を追いながら、淡々と出題してくるので、なんだか夢に出てきそうだ。
どうしてトリオン体での通信は、嫌が応にも耳に伝わって来てしまうのだろうか。普段は便利なはずの機能は、今は邪魔なだけだ。
「そうか? 昔、加古とこうしてランク戦ついでに勉強していたんだがな」
「あんたらと一緒にしないでください!!」
「そのうち慣れる」
「勘弁してくださいよー!!」
一石二鳥だろうなんて、のうのうと言ってのける二宮に、とうとう犬飼は悲鳴を上げた。
A級ランクの隊長を務める加古はかつての二宮のチームメイトであり、普通にタイマンをはれるレベルの猛者だ。そんな加古と一緒にしないで欲しい。犬飼は二宮からの攻撃を堪えるだけで精一杯で、問題をじっくり考えている余裕などない。
逃走ルートを選定し反撃のチャンスを窺いながら、同時に世界史の教科書を頭に浮かべる。並行処理はオペレーターの専売特許だけれども、彼女たちもまさか戦闘中にオペレーションしながら勉強などということはすまい。差し迫った感じもへったくれもない。
それでも、二宮隊の一員として、犬飼に回答をしないという選択肢は与えられていなかった。上下関係万歳である。
「クリミア戦争なのはわかるんだけど、イギリス・フランスと、えっと、どこだっけ、ええっとぉ……」
食べ物みたいな名前の横文字の国というおぼろげな記憶は浮かんでいるのだが、空回っている自覚はあった。確か先日問題集でやったはずなのに、焦れば焦るほど答えは思い出せない。イライラは頂点寸前、頭を掻き毟って絶叫したい。でも、そんなことをしたら二宮に見つかってしまう。
どうにか二宮に一矢を報いたいのだが、逸る気持ちが犬飼の冷静さを欠かせた。
「――タイムアップだ、犬飼」
二宮の声が、やけにそばで響いた。思考からはっと顔を上げれば、いつの間にやら二宮の姿が目の前にあって。まんまと先回りをされ、逃走ルートが甘かったことに気づいた時にはもう遅く。
空中に浮かび、はらはらと三角錐に分割されていくトリオン。光に反射して綺麗に映えた二宮の落ち着き払った表情が、犬飼とは対称的過ぎて今は酷く憎らしい。
咄嗟に、突撃銃をぶっ放す。だが、ヤケクソ気味な銃弾が当たるはずもない。
「正解はクリミア戦争、イギリス・フランス・サルデーニャだ」
無常な答えと一緒に、犬飼の身体に複数の穴が続けざまに開いていく。言葉を発する余裕もないまま緊急脱出し、気がつけば個人ランクブースのマットの上に落ちていた。
印象に残りすぎて、絶対にこの問題は忘れないなと犬飼はぼんやり思った。
* * *
そんなこんなで、二宮のスパルタとハリセンをかいくぐり、トリガーを手に取りたくなる衝動をぐっと堪えて、昼夜真面目に勉学に勤しんで挑んだ期末テスト。終わった時には、やっと解放されたと犬飼と鳩原は、短くも長い戦いの終わりを、うっすら涙を浮かべ手に手を取り合って喜んだ。気分は、共に辛く苦しい困難を乗り越えた戦友である。
あまりにもはしゃいでいたので、何事かと荒船がびっくりしていたほどだ。
「テスト結果、どうだった? 犬飼くん」
「バッチリ。二宮さんが教えてくれたのに、下手な点数取れねーっつの。いつもより点数良かったくらい」
「あたしもだよ! 解答欄も間違わなかったの」
返ってきた丸でいっぱいの答案を見せ合いながら、犬飼と鳩原はお互いの健闘を讃え合った。過去最高のテスト結果を収めることが出来たので、二宮にも胸を張って顔向けが出来る。
「まあその分、心的プレッシャーがハンパなかったわけだけど」
「そうだね……。しんどかったね」
ただ、素直に喜んでいいのかどうかわからなかった。犠牲にしたものは、それなりに大きい。
テスト勉強の期間は、もうあまり思い返したくない。げっそりとやつれた気がする。事実、成績は上がったが、体重は落ちていた。毎日コツコツ真面目に勉強しようと心を改める程度には、トラウマを生んだ。
だが、そんな日々とはもうおさらばかと思うと、気分も爽快。鳩原の表情も心なしか輝いて見えた。
個人ランク戦も晴れて解禁で、溜まった鬱憤を思い切り晴らしたい。とりあえず、最初に影浦を潰そうと、犬飼は心に決めていた。逆恨みである。
「あっ、二宮さん!」
「ああ、犬飼と鳩原か」
「おかげさまでテスト、すごくいい点数が取れました」
「ありがとうございます、二宮さん!」
作戦室に入室してきた二宮に向けて、二人は頭を深々と下げる。なんだかんだ言いつつも、こうして好成績を収めることができたのは、二宮さまさまだ。
「そうか。お前たちならやればできるし、心配していなかったが。まあ、頑張ったな」
ふ、と二宮の空気が和らいだ。仏頂面には変わりなかったけれども、犬飼と鳩原の頑張りを間近で見ていたから、どこか誇らしげだ。いつも二宮が寄せてくる出来て当然だという傲慢な言い方も、裏を返せば隊員たちを信頼しているからで。きちんと結果を出せば、二宮は認めてくれる。
今回の件に関して、比較の対象が太刀川だったという現実からは目を逸らした。
「~~っ!」
だいぶそっけなかったとはいえ、滅多に言葉をくれない二宮に褒められたと思ったら、嬉しさがこみ上げてきて。大変だったけれど、ちゃんとやってよかったなと現金なことを考え始める。喉元を過ぎれば、熱さを忘れるのだ。
それは鳩原も同じだったようで、昂りで頬がほんのりと桃色に染まっていた。
「訓練もいいが、次は勉強もサボるんじゃねぇぞ」
「はいっ!」
二宮から賜ったありがたい言葉に、二人は綺麗に強い唱和を返した。
それはもう、肝に銘じます。
「ねえ、ひゃみさん」
「なに、辻くん」
「犬が二匹いるように見えるんだけど、俺の気のせいかな」
「それなら大丈夫よ。私にも尻尾をパタパタ振って大喜びしている姿が見えるから」
犬飼と鳩原とは打って変わって、順当な成績を収めた後輩たちは、作戦室の片隅で呑気にそんな会話を繰り広げていた。
二宮を前にした犬飼と鳩原から、耳と尻尾の幻覚が見えるのは、どうやら辻だけではなかったらしい。
「あの二人、二宮さんのこと大好きだよね」
辻の言葉に頷くも、氷見は唇に指を当てて愛らしく唇を尖らせた。
「だけど、あの二人だけ二宮さんに褒められるの、ずるいと思わない? 私たちだって頑張ったのに……」
きちんと日々の学習を怠らず、普段と変わらぬ成果を上げている後輩たちこそ、褒められるべきなのは道理だ。
辻もそこには大きく首を縦に振った。
「うん。じゃあ俺たちも突撃しちゃおうか、ひゃみさん」
「そうね!」
悪戯めいた表情で、辻と氷見は顔を見合わせて笑う。
ちょっとの嫉妬と、羨ましさと、混ざりたいという気持ちと。辻と氷見も、ずるいと声を上げながら、敬愛する先輩たちの元へと駆け出した。
なお、あまり活用されることのなかった二宮作のハリセンは、無事風間の手元に継承され、精神的・物理的な意味双方で、サボり癖の酷い太刀川のケツ叩きに一役買うこととなる。