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10年後TRIGGER

04 25 *2017 | text

ワートリ・二鳩


続き


 鳩原未来は思案に暮れていた。

 メンテナンスに出していたトリガーを返却してもらう時に、たまたま開発室に出入りしていた迅から渡されたトリガーチップ。一部の技術者と共同で開発してみたものらしい。

 曰く、このトリガーチップを使うと『10年後の未来が見える』のだとか。

 遠くを見通す目を三日月のように悪戯っぽく細めて、迅は笑っていた。

 何故迅が、こんなものを鳩原によこしてきたのかはわからない。未来を視るサイドエフェクトを持つ彼だ。もしかしたら、何か鳩原の未来に関係するものなのかもしれない。

 勿論、冗談の可能性もある。冬島や寺島などは、時間があるときに趣味半分のお遊びチップを作っていたりもする。

 迅の言葉を完全に信じたわけでも、感化されたわけでもないが、気が向いたら試して欲しいと請われたこともあって、フリースペースにチップをセットしてみた。トリガーを掌に乗せて、鳩原はしげしげと眺めた。本当にトリガーを起動したら、10年後なんてものが見えるのだろうか。半信半疑である。

(10年後かぁ……)

 鳩原は、ぼんやりとまだ見ぬ未来を描いてみる。だが、将来の自分の姿が全然想像できなくて、鳩原は頭を抱えた。

 将来の自分、それ自体にどこか違和感を感じるのは、今この瞬間を必死に生きていくことだけで精一杯だからだろうか。余裕がない。鳩原は自嘲気味に口角を上げた。

「……何をしている、鳩原。そんなに真剣にトリガーを見つめて」

「あ、二宮さん……。お疲れ様です」

 急に背後から声をかけられて、鳩原はびくりと背筋を伸ばした。そろそろと振り向けば、いつの間にか二宮が作戦室に入室してきていた。考え込みすぎていて、全く気づいていなかった。

 いつもの仏頂面で、二宮は怪訝な目を鳩原に向けてくる。

「さっき迅さんから、おかしなトリガーチップをいただいて……」

「迅から?」

「はい。何でも、『10年後の未来が見える』トリガーチップだとか」

「下らん。どうせ、迅の冗談だろう」

 ふん、と二宮は一笑に付した。まあ二宮ならそう言うだろうなと思っていたので、鳩原も「ですよね」と返して曖昧に笑った。犬飼辺りがいたら、「二宮さんは夢がないなあ」とツッコミを入れそうでもある。

「それより、これから防衛任務が入っているぞ。お前、まだ換装していないのか?」

「あっ、そうでした! すみません」

 時計を見ると、任務まであと四十分程度。任務開始の三十分前には集合して、軽くブリーフィングを行ってから、巡回を開始するのが常だ。他の隊員たちも、そろそろ作戦室に顔を見せる頃合だろう。


「トリガー起動」


 慌てて鳩原はトリガーを起動させた。

 ――迅からもらった、『10年後の未来が見える』チップを、うっかり装着したままで。



 くらり、と身体が揺れる感覚がした。視界がチカチカと明滅したかと思うと、白に染まっていく。鳩原は、額を押さえた。

「……え? な、に……?」

 鳩原の様子が少しおかしいと気づいたのか、何事かと二宮が眉を顰めた。

「……鳩原?」

 鳩原の身体が傾いだと同時に、突如、ぶわりとトリガーが発光した。真白の閃光は、トリガーを手にした鳩原ごと包み込む。

「鳩原っ!?」

 珍しく焦ったような二宮の声が、どこか遠くで聞こえる。

 鳩原は、そのまま意識を手放した。



* * *



 かたん。膝の上から何かが滑り落ちて床に当たる。その音で、鳩原の意識と視界は正常に機能を再開した。

「え……?」

 はっと我に返る。気がつけば鳩原は、床の上にしゃがみこんでいた。あの時、自分は倒れたのではなかったのだろうか。

 霞む思考に一度頭を振ってから、鳩原はゆっくりと周囲を見渡した。

「……ここ、どこ?」

 呆然と呟く。どことなく見覚えのある内装だったので、ボーダーの内部なのは間違いないだろう。

 だが、そこは鳩原が先ほどまでいた二宮隊隊室ではなかった。

 倒れた自分を、誰かが移動させたのだろうか。だとしても、こんな床の上でへたり込んでいるのは何故なのか。

 落ち着け。そう言い聞かせて、鳩原は深呼吸をしてから、とにかく自分の状態を確認する。痛いところも、外傷もなし。めまい、気持ちの悪さもなし。身体には問題なさそうだ。ただ、換装に失敗したのか、二宮隊の隊服であるスーツを纏っておらず、高校のセーラー服を着たままだった。

 視線を下に流すがままに床へと向けると、膝元にトリガーが落ちている。先ほど鳩原を現実に引き戻したのはこの音だったのかと、己のトリガーを手にした。

「……トリガー起動」

 換装は起きずに、鳩原の小さな呟きだけが部屋の空気に溶けた。

 トリガーに何かしらの不具合が起きているのか、何度か起動を試みたが、うんともすんとも言わない。すっと血の気が引いていくような感覚に襲われる。不安に、心臓が早鐘を打っていく。

 全然わけがわからない。記憶も、トリガーを起動させたところでぷつんと途切れていて、おぼろげだ。

「おい、準備はできたのか? 一体何を手間取っているんだ」

 鳩原が現状把握に躍起になっていると、突如扉の向こうからくぐもった声が掛けられた。聞いたことのある、けれども自分の記憶よりもほんの少しだけ低めの声。不意打ち過ぎて、びくりと鳩原の肩が跳ね上がる。扉の向こう側に誰かがいるだなんて、全く思いもよらなかった。

 先ほどから頭には疑問符ばかり浮かんで、爆発しそうだった。

 こんこんとノックが響いた。どうしたらいいのだろうかと鳩原が息を呑んでいると、暫くして返答がないことに焦れたのか、「入るぞ」という声と共に扉が開かれる。隠れられる場所も、時間もなく、へたり込んだまま鳩原は面を上げる。

 入室してくる人物の姿を見て、鳩原は思わずきょとんと瞳を瞬かせた。

「……あ」

「……鳩、原?」

「……二宮、さ、ん? え……?」

 そこには、鳩原同様、目を僅かに見開いた二宮匡貴らしき人物が立っていた。

 けれども、彼は鳩原の知る二宮ではなかった。

 その二宮は、隊服とはまた異なった形のダークグレーのスーツをぴしりと身に纏い、ノンフレームの眼鏡をかけていた。やや髪が短いだろうか。そして何よりも、微かに残っていた幼さが抜け、精悍な男の顔つきをしていた。今よりもずっと貫禄がある。口をぽかんと開けて、思わず上から下まで眺めてしまった。

 元々歳の割に大人びた人だったけれども、それこそ、鳩原の知る二宮が10年くらい歳をとったかのような姿で――。

(10年後って……)

 鳩原の脳裏に、迅の言葉がよみがえった。


(う、嘘……。そんなこと、現実にあるわけが……)


 これが夢でないなら、鳩原は恐らく10年後の未来に来てしまったということになる。そんなまさかと否定を繰り返してみるものの、目の前の男がそれを許してくれない。

 言葉を無くして互いを凝視していたが、暫くして彼が唇を開いた。

「……おい、お前。名前は」

「は、鳩原、未来、です。あの……貴方は、二宮匡貴さん、ですか?」

「そうだ」

 二宮がこくりと頷く。どこかぎこちなくよそよそしい会話に、沈黙が落ちた。

「……歳は」

「ええと、17歳になりました。もしかして二宮さんは……」

「……29だ」

 ビンゴ。鳩原は額に手を当てて床を向き、二宮は逆に天井を仰いだ。どこか苛立った様子で、二宮はぐしゃりと前髪に乱雑に手を入れる。

「あああ、思い出したぞ、思い出した。くそっ、あいつめ……!」

 二宮の呟きが何を指し示しているのか、鳩原にはわからなかったが、一つだけ言えることがある。


 どうしてこうなった。



* * *



 軽く事情を説明し、互いの認識の刷り合わせを行ったのだが、いつまでも床にしゃがみこんで会話をしているのも間抜けだったので、冷静さを取り戻した二宮に隣室へと誘われた。この小部屋は、納戸のようなところらしい。

 迅は10年後の未来が見えると言っていたが、よもや10年後の世界に紛れ込むことになろうとは、一体誰が思うだろうか。どういう原理だ。

「……いひゃい」

 鳩原は己の頬を思い切り抓ってみた。夢ならば痛くないというけれども、ちゃんと痛い。

 あまりにも空想的で途方もなさ過ぎて、笑いしか出てこない。しかし、これはまごうことなく現実だった。

「……何をしている」

 いつまで経っても隣室に来る気配のない鳩原を見かねて、二宮が突如振り返ったので、頬が伸びている間抜けな顔をばっちり目撃されてしまった。二宮は鳩原の奇行に眉を顰めている。

「夢じゃないんだよなあと思って……」

「夢でこんな荒唐無稽なことが起きるか。さっさと来い」

「……お邪魔します」

 居心地悪く隣の部屋へと移動をすると、デスクが四つ向かい合わせで並んでいる。机の上には書類が山積みになっていて、10年という歳月が経過してもボーダーは人手が足りないのかと心配になってしまう。室内にはソファやテーブルなどは設えられておらず、隊室というよりは職場という感じがした。

 鳩原の知る二宮隊のA級隊室と比べると、手狭な部屋だった。

「そういえば、二宮さん、眼鏡をかけているんですね?」

「ああ、これか」

 目を僅かに伏せた二宮は、眼鏡のテンプルに手をやり、流れるような所作で外す。丁寧にたたんでデスクの上に置いた。

「パソコン作業の時だけだがな」

 ふとした仕草が、色っぽくて何だかどきどきしてしまう。

 鳩原の知る二宮は、眼鏡などかけていないから、余計にいつもと異なる雰囲気が不思議だった。

 10年も経過していれば当たり前か、と鳩原は一人で納得する。

 トリオンは歳を取るにつれ減少して行く。冬島や東くらいの年齢で現役なのは稀で、そのくらいの年齢になれば大体事務方に回る者の方が多い。二宮も年齢から考えて、隊員から事務方にシフトしたのだろう。二宮は有能で、頭の回転も速く、書類整理にも長けているから、幹部候補生かなと当たりをつけた。

 鳩原がきょろきょろと室内を物珍しげに窺っているうちに、小さな給湯スペースで二宮がコーヒーを淹れてくれる。人のデスクに勝手に座るのもなんだからと、立ったままで鳩原はコーヒーを受け取った。

「二宮さんが優しい……」

「おい。コーヒーを淹れたくらいで何だ、それは」

「だって……」

 めちゃくちゃあたし好みのコーヒーになっているじゃないですか、という言葉はつぐんだ。

 マグカップをゆっくりと啜る。ミルクたっぷりに、ほんのり甘めのカフェオレ。猫舌の鳩原でも、丁度飲める程度の温さ。鳩原の好みの味に、ほっと肩の力が緩んだ。

 気持ちがほぐれてくると、顔を覗かせるのが不安だ。

「あたし、帰れるんでしょうか……」

 ぽつりと胸に蟠っていた不安が零れてしまう。二宮は、コーヒーを飲む手を止め、フンと鼻を鳴らした。

「……俺が知る限りでは、せいぜい十数分程度でちゃんと戻れるはずだから安心しろ」

「……そっか。よかった」

 懸念が解消されて、鳩原は安堵に胸を撫で下ろした。すぐ自分のいるべき時間軸に戻れるという保証があるなら、運悪く迷路にでも迷い込んだものだとでも思えばいい。楽観的ではあるが、今更済んでしまったことを嘆いたところで仕方あるまい。

 とはいっても、普通に考えたら驚天動地レベルの話なのに、さして恐慌に陥らずにすんでいるのは、傍に二宮がいるからだろう。

「でも、二宮さんがそんなに変わっていなくて、ちょっとほっとしました」

「……俺は、自分の記憶の中にある10年前のお前が、そのまま目の前にいて驚いたぞ」

「ですよねー。ふふ、おかしな感じです、大人の二宮さんとこんな風にお茶を飲んでいるだなんて」

「まさかこの歳になって女子高校生と暢気に……。まあ、実際は鳩原なわけだが」

「はっ、この構図、援助交際っぽい……」

「おいやめろ、洒落にならん」

 呆れ混じりに二宮が呟く。鳩原は肩を竦めた。

「……そういえば、二宮隊ってやっぱり解散したんですか?」

「それを知ってどうする」

「やー、二宮さんがそんなに変わっていなかったから、他のみんなの10年後はどうなっているのかなあって気になって」

 気持ちが落ち着いてきたら、湧いてくるのは好奇心で。鳩原は興味本位で尋ね、首を入り口のドアへと伸ばしてみる。そんな彼女の行動に、二宮はぴくりと肩眉をつり上げた。そのまま、深々とため息を吐く。

「気安く先のことを知ろうとするな。それに、どの道お前をこの部屋から出すつもりはないぞ。大体、誰かに会ったとしたらどうやって説明するつもりだ」

「二宮さんが何とかしてくれるかなと」

「誰がするか」

「ええー……。でもまあ、十数分程度しか猶予がないんじゃ、何にもできないですよね。漫画とか小説だと、あちこち探検できるのに」

「全く……イレギュラーの最中なんだ、大人しくしていろ」

「はぁい」

 二宮は、昔と変わらず鳩原を窘める。コーヒーを飲みながら、鳩原はちらりと隣に立つ二宮を盗み見た。

 鳩原の知る二宮よりも、ぐっと大人な彼。どこか余裕めいた表情は、昔よりも随分とその表情を柔らかく見せている。いつも仏頂面で、威圧感を纏い、硬質な雰囲気を与える二宮だったから、どこか丸くなった感じがとても不思議だった。

 ありていに言えばカッコいい。これが大人の余裕というやつか。

 普段よりも随分と温和な感じがする二宮になんだか据わりが悪くて、どきどきしてしまって、鳩原は困ってしまう。

 そんなことを考えていたからだろうか。手元が狂った。机までの目測を誤り、がつんとカップの底を机の角にぶつけてしまったのだ。弾みで中のコーヒーがこぼれ、鳩原の腕にかかった。

「あっ!」

 元々、温度を温めに調整をしてくれていたことと、淹れてから時間が経過していたせいか、熱湯というほど熱くもなく、一瞬ほんの少し腕にぴりっと刺激が走って鳩原はびっくりしてしまい顔を顰めた。

「大丈夫か!?」

「平気です。ちょっと被っただけなんで大したことないです」

 この程度であれば、やけどにはいたらないだろう。

 かろうじてカップを落とすことも床をコーヒーで濡らすこともなく、鳩原はほっとする。

「あはは、すみません……」

「本当にお前はそそっかしい……」

 コーヒーのかかった手をハンカチで丁寧に拭きながら、お小言の一つでももらうだろうかと構え、鳩原は眉を下げて困ったようにへらりと笑う。

 すると、二宮の顔が俄かに強張った。

 なんだろう。そこまで怒らせてしまっただろうか。几帳面でしっかりしている二宮からすると、鳩原のマイペースっぷりは苛々させるらしい。鳩原のやらかしに、普段から深々とため息を吐かれたり、お小言をもらっているから、もしかしたら今回も二宮の癇に障ってしまったのかもしれない。顕著な反応に、鳩原は内心びくつく。

 ことり、と二宮がマグカップを机に置いた音が、いやに大きく響いた。

「わ!」

 次の瞬間、鳩原は二宮に手を引かれていた。とっさのことで全く反応ができず、ひっぱられるままに身体が前に傾ぐ。とん、と二宮にぶつかって支えられる格好になってしまった。

「……二宮、さん?」

 とくり、と心臓が大きく鼓動を鳴らした。

 二宮の背が緩やかなカーブを描いている。確かに今、鳩原は二宮の腕の中にいた。

 鳩原の手首を掴む腕の力は強く、抱き寄せられた胸は温かく、ほのかにタバコの匂いが香った。

 知らない。こんな二宮を、鳩原は知らない。

 あまりにも近くに、二宮の存在を感じて。自覚をしたら、一気に熱が上がってきた。

 どうしよう。混乱と動揺のダブルコンボで反射的に身を引こうとすると、それよりも早く二宮の腕が鳩原の背に回った。より二宮と密着してしまい、ますます鳩原の戸惑いは募るばかり。抱きしめるというよりは、最早拘束に近くて息苦しい。

 この状況が信じられずに、鳩原は茫然と目を瞠ることしかできなかった。

「……すまない。少し、このままで」

 耳元をくすぐる懇願するような声が、あまりにも二宮らしくなくて。この手を離してはいけないのだと、本能的に悟ってしまった。

 力を抜いて、されるがままに身を任せる。どうかなと思いつつも、安心させるように二宮の背に腕を回してぽんぽんと叩いてやると、案の定二宮の拘束は自然と緩んだ。

「……何か、ありましたか?」

 恐る恐る、鳩原は尋ねる。さっぱり事情はわからないが、どうやらコーヒーを零したことが引き金になって、二宮を感傷的にさせてしまったらしい。

「……ああ。たくさんのことがあった」

 その言葉はどこか重くて。

 鳩原にとっては知らない未来。二宮にとっては通り過ぎてきた過去。

 鳩原は回した掌で、二宮のスーツの背をきゅと強く掴んだ。

「ごめんなさい」

「何故、お前が謝る」

「だって、この先あたしが二宮さんにたくさん迷惑とか心配、かけちゃうのかなって」

 怪訝そうに問う二宮に、鳩原は自己嫌悪に俯いた。

 足手まといになりたくない。そう思い続けて訓練を続けてきたが、やはり鳩原の『人を撃てないこと』について、色々と噂や憶測が飛び交う。自分が悪く言われるのは別段気になどしないが、二宮隊のみんなに変な飛び火をしてしまうのは、鳩原の望むところではない。

 まあ個人的にも、二宮隊の面々には色々と面倒をかけていたりもするのだけれども。

「……そうだな」

 ふっ、と二宮が微かに笑ったような気がした。


「あああああ痛い痛い痛いです二宮さん!! ギブギブ!!」


 次の瞬間、本気で頭の両サイドを拳でぐりぐりされて、鳩原は素っ頓狂な声を上げる。まさかあの流れでこの仕打ちがくるだなんて、完全に予想外だった。突如走った強烈な痛みは、今までのしんみりとした雰囲気を全てぶち壊した。

 暫くすると満足したのか、二宮が解放してくれるが、鳩原にとってはたまったものではない。本気で痛かった。冷静沈着なはずの二宮の行動が、さっきから突拍子もなくて戸惑う。

 うっすらと瞳に涙を浮かべ、鳩原が抗議の声をあげようとすると。

「もう、何するんです、か……」

 鳩原の目の前に立つ二宮は、口角を上げてうっすらと笑っていた。表情筋が仕事をしないなどと囁かれている二宮の不敵な、それでいてどこか自愛を含んだ笑顔というのはとても貴重で。

 鳩原はずきずきする頭を押さえながら、反撃も忘れてきょとんと目を瞬かせた。見惚れた、といってもいい。

「変な気を回すな。お前はそのままでいい」

 くしゃり、と鳩原の頭に手を置かれる。乱雑な手つきで、髪をかき回された。ただでさえぼさぼさなのに、ますます酷いことになる。でも、不思議とその手は気持ちがよかった。

「あ……」

 二宮の手に身を委ねていると、不意にくらりと身に覚えのある眩暈に襲われた。ポケットに入れておいたトリガーが、熱を帯びている。慌てて取り出すと、わずかに光を帯びていた。徐々にその光は強まっていく。

「そろそろ時間のようだな。ほら、すぐに帰れると言っただろう」

 トリガーの光が、鳩原を包み込んでいくに従って、ぐらぐらと鳩原の視界が揺れる。

 ぶれていく世界の中で、二宮の視線がまっすぐに鳩原を貫き、一つ力強く頷いた。

「何があろうと、これだけは覚えていろ。俺たちはお前のことを信じている」

「え……? それってどういう……」

「さよならだ。未来」

「にの……っ!」

 最後に二宮は何事かを呟いたようだったが、鳩原の耳には届かない。

 どこかへ落ちていく浮遊感に、思わず手を伸ばす。掌は空を切り、二宮を呼ぶ声は最後まで紡ぐことができなかった。



* * *



 眩い白光が、トリガーを中心に徐々に収束していく。くらくらと、軽いめまいが収まるまで、鳩原はまぶたを閉じたままじっとしていた。

 やがてゆっくり目を開くと、見慣れた二宮隊の隊室が飛び込んできた。しかし、そこには息を呑む光景が広がっていた。


「!?」


 二宮隊の面々が、点在して床やらソファやらに倒れているのだ。

 鳩原はふらつく身体を奮い立てて、慌ててみんなの意識を確認する。

「……寝て、る……だけ?」

 おかしな場所に横たわって、くったりと弛緩して意識はないものの、四人は静かに寝息を立てていた。

 鳩原は安堵に思い切りため息をついた。びっくりして、心臓が止まるかと思った。心なしか目が潤んでしまった。鼻をすすりながら、鳩原はへなへなとその場に崩れ落ちた。

 もしかして、鳩原のトリガーの影響なのだろうか。10年後の二宮に会うなどという不可思議な体験をしていたのだ。その影響が、こちらの世界にも出ていないとは限らない。

 慌てて東に助けを請うて、鳩原はどうにか二宮隊の四人を医務室に担ぎこんだ。防衛任務に関してはそれどころではなくなってしまったため、たまたま空いていた諏訪隊に代わりをお願いした。

 目を覚ました四人に問診をすると、全員何が起こったのか覚えていなかった。記憶の混濁というよりも、鳩原が未来にいた最中の短い記憶だけが、綺麗さっぱり抜け落ちていたのだ。誰しもが首を傾げていた。

 騒動に覚えているのは、鳩原だけ。

 けれども、鳩原も口をつぐんだ。10年後の世界に行きましたなんて馬鹿正直に言ったところで、頭でも打ったかと疑われるだけだろう。

 狐にでもつままれたような、もやもやとした気分だった。奇妙な話だ。たった十数分程度の出来事が、鳩原の見た白昼夢ではないかとさえ思えてくる。

 だけど、鳩原は覚えている。この身に触れた、10年後の二宮の暖かさを。

(あれは夢なんかじゃないよ……)



 二宮隊の面子は、大事をとって既に帰宅を促されている。鳩原は、第一発見者ということで、問診だけでなく状況報告もあり、医務室を出るのが一番最後になった。

 隊室までの道のりを歩いていると、通りかかった開発室の前で、ちょうどドアが開いた。

「……迅さん」

 姿を現したのは、迅だった。まだ開発室に入り浸っていたようだ。あまり本部に顔を見せない迅は、一度本部にやってくると、あちこち引っ張りだこで長時間滞在することが多い。

 迅はひらひらと手を上げて、鳩原に挨拶をよこした。

「よぉ、鳩原。二宮隊が大変なことになっていたみたいだけど、大丈夫だった?」

「はい。あたしは特には……」

 そうだ。迅がくれたトリガーチップがそもそもの元凶なのだ。未来が視えるサイドエフェクトを持つ彼だ。こうなることは予測できたのではないだろうか。

 鳩原は、はっとなって迅に問うた。

「あっ、あの! いただいたトリガーチップ、あれは本物なんですか?」

「鳩原は面白いことをいうなあ。10年後の未来が見えるっていったでしょ? ……って大そうなこと言ったけど、シミュレーターから10年後の姿を予測計算して、換装するチップなだけなんだけどな!」

「……え?」

 しかし、鳩原の予想は大きく外れた。迅は、何も知らぬ口ぶりで、トリガーチップの効果のネタばらしをしてきた。

「あれ、上手く換装できなかった?」

 鳩原の反応に、迅はぱちりと目を瞬かせる。

 そうか。やっぱり時間を飛び越えるだなんて、いくらトリガーでもできるわけがなかった。当たり前だ。

 迅の望む効果は現れなかったから、鳩原は素直にこくりと頷いた。

「はい……」

「あちゃー。駄目だったか。でも、使ってくれたみたいでありがとな」

「いえ」

 きゅ、とポケットに入れたままのトリガーを、鳩原は服の上からなぞる。そうして、意を決して口を開いた。

「迅さん、このチップ、もらってもいいですか?」

「それは構わないけど失敗作だよ?」

「いいんです」

 誰もこのトリガーチップによって引き起こされた事態がわからなくても、鳩原にとっては重要な代物だった。失敗作故にリサイクルする他ないとのことで、迅は不思議そうにしていながらも快く提供してくれた。鳩原は、ほっと胸を撫で下ろした。

「ところで、鳩原はのんびりしてていいの? なんか二宮さんが待ってるっぽいのが視えたんだけど」

「えっ!? 本当ですか」

「ああ。気をつけて帰るんだぞー」

「はい、ありがとうございました」

 まさか二宮が待っているとは露とも思わず。しゃんと背筋を伸ばして、鳩原は迅への挨拶もそこそこに、廊下を駆け出した。



「でもまあ、想定とは別のことが起きたのだとしたら、それは運命じゃないかなって思うよ」


 遠くへと去り行く背中に手を振りながら、未来を視る男は、にやりと笑ってその場を後にした。

22:04