完結しました。完全にタイトル詐欺になっていて申し訳ございませんでした(平謝り)。よもやこんなに長くなるとは全くの想定外で…お待たせしてすみません。ぐだってますが、少しでも楽しんでいただけると嬉しいです。
緑間君が女体化してますのでご注意ください。
今日、緑間は宮地とデートのはずだ。数日前からそわそわと、緑間にしては随分わかりやすく浮かれていた。
それなのに、高尾、と呟いた電話口の緑間の声が、まるで嗚咽を堪えているみたいに震えているから。
どこから電話をかけてきているのかを尋ねれば、緑間は秀徳高校傍の小さな公園を挙げた。何故そんなところにいるのかは不可解だったが、馴染みのある場所で良かった。迷わずに行ける。電話を切ってすぐ、高尾は財布と携帯だけを手に家を飛び出した。
二人の間に、一体何があったのかはわからない。けれども、緑間が高尾を呼んだ。高尾が走るには、それだけで十分だった。
(いた……!)
辿り着いた公園で、ぽつんとベンチに座っている緑間は、俯いて意気消沈しているように見えた。普段、胸を張って毅然と前を向く彼女が、背を小さく丸めて項垂れている。
――泣いているのだろうか。
ぐっと、拳を握り締める。
「真ちゃんっ……!」
いても立ってもいられなくなって、高尾は緑間に駆け寄った。
高尾の声に気づいて、ゆらりと顔を上げた緑間は――涙を浮かべるでもなく、悲しげな表情をするわけでもなく、柳眉を吊り上げ、瞳を険しく細め、たいそう不機嫌を顕わにしていた。
「へっ?」
想像していたものとは真逆の緑間の様相に、高尾は目を見開いて、ぴたりと足を止めてしまった。
「真ちゃん」
「何だ」
「……泣いているんじゃなかったの?」
高尾の言葉に、緑間はぴくりと肩を跳ねさせる。そして、凍えてしまいそうなほど冷たい視線で、高尾を睨み付けた。
あ、これは地雷を踏んだ、と高尾の口角が引きつる。
両者の間に、妙な緊張感が漂った。蛇に睨まれた蛙の如く、高尾はその場に立ち尽くす。周囲の空気はひんやりとしているというのに、さっきから背中に嫌な汗がだらだらと伝っている。ごくり、と唾液を嚥下する音がやけに耳に響いた。
どのくらい針の筵を味わったのだろう。暫くして緑間がため息をついたことで、空気が和らいだ。無言のプレッシャーから解放され、じわじわと硬直を解いて、高尾もほっと胸を撫で下ろす。
今の緑間が、非常に不安定になっていることだけは、痛いほどわかった。
「……別に、泣いたところで現状が変わるわけでもないし、悲劇のヒロインぶるのは性に合わんと思っただけなのだよ」
ふんと鼻を鳴らし、ベンチに背を預けふんぞり返った緑間は、悠然と足と腕を組んだ。電話口でのしおらしげな様子は、一体どこにいってしまったのかと言うほどの居丈高な態度。けれどもそれは、高尾を前にした緑間の虚勢なのだろう。
「隣、座ってもいい?」
「好きにしろ」
緑間に許可を取ってから、ベンチに腰を下ろす。
高尾は、そっと鷹の眼を発動させて、隣で肩肘を張っている緑間の様子を窺った。
普段、高尾の前に立つ彼女とは異なる風貌。華やかにコーディネイトされた姿は、きっと誰の目から見ても、愛らしく艶やかに映ったことだろう。端整な容姿がより一層際立って、緑間を見慣れている高尾でさえ、自然と熱が顔に集まってくるようだった。
どこかのアイドルグループを連想させる緑間の服装。一体、誰のために着飾られたものなのか。それを考えるとちりりと胸がざわついたが、高尾は全て飲み込み、おくびにも出さずに緑間へ笑顔を向けた。
「んで? どうしたの、真ちゃん。何があったの?」
「……」
緑間は黙りこくって口を割らない。
「まあ、話したくないならいいけど。オレはここにいればいいのね?」
「……少し、待ってくれ。まだ、整理がついていないのだよ」
「うん。いいよ。待ってるから」
ぽんぽんと、少しでも落ち着かせるべく肩を優しく叩いてやれば、緑間は大人しく頷いた。
触れた緑間の肩は、すっかり冷え切っていた。走って暖まっていた高尾の指から、熱を奪っていく。
こんなに冷たくなるまで、緑間は一人でいたのか。いくらコートを着ているとはいえ、寒空の下でじっと北風に身を晒したままでいては、風邪を引いてしまいかねない。
「なー、真ちゃん。喉乾いていない? 奢ってやるよ」
「……お汁粉が飲みたいのだよ」
「りょーかい」
高尾は立ち上がって、自動販売機へと足を向けた。ここの自動販売機は、夏でも冬でもお汁粉を取り扱っている極めて貴重なものだ。部活後のお汁粉を求めて、緑間と高尾はよくこの公園に足を運んでいた。
高尾は自動販売機の前に立つと、まずはジーンズのポケットから携帯を取り出して、緑間に悟られないようメールを一つ打った。怒り半分、呆れ半分、そんな気持ちを込めて送信のボタンを押す。やれやれと、肩を竦めた。
それから、お汁粉とコーヒーを購入して、高尾は何食わぬ顔で緑間の元へと戻った。
「ほい。あちーから気をつけてな」
「ありがとうなのだよ」
手渡された缶を受け取ると、緑間は一瞬驚いた表情を見せて、掌の上で何度かそれを転がした。もしかしたら自分の身体が、かじかんでいたことにすら、気づいていなかったのかもしれない。
しばらく缶で暖を取ってから、緑間はプルタブを開け、お汁粉に口をつけた。ゆらりと上る白い吐息と共に、緑間の身体から力が抜け、張り詰めていた雰囲気が緩んだかに感じられた。それを見届けて、高尾も自分のコーヒー缶を開けた。
一頻り、無言で飲み物を飲む。
暖かくて甘いものは、緊張を解してくれるよねと、妹との会話がふと脳裏をよぎった。甘いものが得意でない高尾にはあまり理解はできないことだが、甘党の緑間はその例から漏れなかったらしい。お汁粉が染み渡り、身体もほんのりと温まって、心にゆとりが出てきたのだろう。缶を手元で弄びながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「……宮地先輩と、喧嘩をしてしまったのだよ」
だろうなと予想通りの流れに、高尾はコーヒーに口をつけながら、緑間からぽつぽつと語られる話に静かに耳を傾けた。
受験で疲れている宮地のために何かしてあげたかったこと。
黒子に、服装への人事を尽くしていないと指摘されたこと。
指摘を受け、宮地好みの服を着て約束に臨んでみようと思ったこと。
そのために、黄瀬にコーディネイトを頼んだこと。
宮地も最初は喜んでくれたのだが、黄瀬の名が出た途端に不機嫌になってしまったこと。
そこから口論に発展し、喧嘩別れして現在に至るということ。
緑間は、ここまでの経緯を訥々と語った。
多分、緑間が明かしたことだけではあるまいと、高尾はあたりをつける。そのくらいで、緑間がここまで塞ぎこむわけがない。宮地と緑間の喧嘩など、もはや日常茶飯事レベルなのだ。多分、宮地が緑間を怒らせ消沈させる程の、そして高尾に言えない何かをやらかしたに違いない。おおよその予測ができてしまって、高尾はそれ以上考えるのを放棄した。
「私は悪くないのだよ」
話しているうちに、段々と悔しさが再燃してきたのだろう。緑間はぷりぷりと頬を膨らませた。こちらはこちらで、どうも意固地になってしまっている。
高尾はまあまあと窘めて、苦笑を漏らした。
「そうだね。でも、やっぱり黄瀬君と二人っきりっていう聞いたら、嫌だなあって思っちゃうのは仕方ないかも」
「……先輩もそう言っていたのだが、何故なのだよ? 黄瀬はただの仲間というか、友人というか、寧ろ犬だぞ? 別に勘繰られることなど、一切していないのだよ」
てっきり味方をしてくれると思っていた高尾が、宮地の擁護に回ったのが気に入らなかったのだろう。緑間は不快げに、むっと唇をへの字に歪めた。高尾を見つめてくる翡翠の瞳は澄み切っていて、裏表などさらさらないことが窺える。
こういう綺麗で真っ直ぐなあり方が、彼女の良いところだし、それに心惹かれた。逆に、じれったくてもどかしく感じる部分でもある。だからこそ、今隣に高尾がいる。悪意もなく、純粋に鈍くてわかっていないというのは、時として残酷だ。宮地にとっても、高尾にとっても。
「真ちゃんが、そんな不誠実なことしないっていうのは知ってるよ。ただ、男って馬鹿だからさー、単なる友達だって頭では理解していても、二人で出かけたとなれば悶々としちゃうし、彼女が別の男の手で着飾られたなんて知ったら、不愉快で脱がせたくもなるんだよ」
「脱がっ……!?」
あえて極端な単語を選んで告げると、案の定、純粋培養の緑間は頬に朱を散らせた。
「……そ、そういうものなのか?」
「そういうもんなの!」
緑間は当惑した様子で、服を軽く摘み上げながら、しきりに首を捻っている。
「真ちゃんだってさー、ちょっとくらい焼きもち焼いたりするっしょ? 逆に宮地サンが女友達と遊びに行くのとか、気になったりしねーの?」
「だって友達なのだろう? 一々気にしていたらキリがないのだよ、バカめ。それとも何か? 好きな人を取り巻く全てに対して、嫉妬をするのは当たり前とでもいうのか?」
「うああ! 真ちゃんはそういう人だった!」
眉を顰める緑間に、がっくりと高尾は頭を垂れ、額に手を当てた。それにしたって、淡白すぎやしないだろうか。いくら緑間が他人に対する興味が薄いとて、自分の恋人が絡むことに、何故こんなに毅然と、凛としていられるのだろうか。
高尾が解せないでいると、緑間は飲み終わったお汁粉缶を脇に置いて、むすりと腕を組んだ。
「大体、あの人は重度のドルオタだぞ。私を差し置いて、推しメンばかり見ているなんてしょっちゅうなのだよ。そんなのに逐一嫉妬していたら、こちらの身がもたん」
「あー……そういえばそうだった」
まさかの宮地のドルオタが招いた弊害だった。どうやら変なところで、無駄に耐性がついていたらしい。おかげで、余計に緑間の独自な意識の持ち方に磨きがかかっている。ただでさえ、マイペースで恋愛感情に殊更疎いというのに、大丈夫かこれ。
一人勝手にやきもきする高尾の心配をよそに、緑間はとんでもない爆弾を投下した。
「それに、宮地先輩は、そんなことをする人ではないのだよ」
高尾はあんぐりと口を半開きにしてしまった。
確信に充ちた緑間の口調。宮地に対する絶対の信頼が、零れ落ちんほどに伝わってくる。
緑間の関心が薄いのではない。信じているのだ、宮地清志という人間を。
緑間は、宮地と仲が良い人だから、宮地が友人と称するのだから、信じて頓着しない。つまるところ、友人なのだから、異性だろうが間違いなど起こりようがないと思っている。当然その考えは、緑間自身にも当てはまるわけで。人付き合いの経験値が浅すぎる、緑間ならではの盲信である。
反対に宮地は、緑間と仲が良い人だから、その距離の近さに不安を覚えてしまう。面倒な人間ではあるが、懐に入れば入るほど、緑間の真価を実感できる故の焦燥だ。特に緑間は身内に非常に甘く、宮地からすれば目の上のたんこぶのような、高尾という煽られる存在もいる。
互いがこの頭でぶつかれば、すれ違い、拗れるわけだ。そもそものベクトルが違っているのだから。
なんていうか、ご馳走様。
当たり前だけど痴話喧嘩やってられるかーとちゃぶ台を返す代わりに、高尾は対面にあるゴミ箱へ、飲み終わったコーヒーの空き缶をシュートする。缶はくるくると回りながら、甲高い音を立ててゴミ箱に吸い込まれた。ナイッシュ。自画自賛だ。
「でもさー、わかってやってよ。真ちゃん」
「何をだ?」
「余裕なくなって独占欲にかられちゃうくらい、真ちゃんのことが大好きなんだってば、宮地サン。かわいーじゃん?」
「へ?」
高尾がにこっと笑って指摘してやる。緑間はあっけに取られていたのだが、高尾の言葉を咀嚼できた頃には、耳まで赤く染まっていた。
「真ちゃん、一番大事なところ抜けてる。駄目だろー」
「……恥ずかしいのだよ」
誤魔化すように、緑間もお汁粉の缶を振りかぶった。放たれた空き缶は、高いアーチを描いたものの、ゴミ箱の縁に直撃してから、かろうじて中に落ちた。動揺が如実に現れて、緑間は呻吟した。
「ははっ。こういうのって、やっぱり理屈じゃないからさ。真ちゃんの信じてる気持ちも、宮地サンの焦る気持ちもわかるよ。でも一方的に押し付けてるだったら、伝わってないんだったら、結局平行線じゃね?」
互いが互いを深く想っているのに、こんな些細なことですれ違ってしまうのは哀しい。
「……」
緑間は唇を引き結んで、じっと黙り込む。高尾の苦言と、宮地と交わしたやりとりを反芻しているのだろう。それを邪魔しないように、高尾は彼女が口を開くのを、隣でゆっくりと待った。
やがて、緑間がはーとため息を付いた。唇から、白い息が細く棚引く。
「黄瀬があの時、しきりに良くないと言っていたのは、こういうことだったのか……。私は肝心の先輩の気持ちも考えず、目先の目的に捕らわれすぎて、人事を尽くせなかったのだな」
漸くこんなことになってしまった原因に合点が行ったのか、緑間はしょんぼりと肩を落とした。長い睫毛が、ふるりと揺れて、憂いに影を帯びていく。
「つーか、何で黄瀬君にコーディネイトしてもらったわけ?」
「……最初は、黒子と桃井に協力してもらうつもりでいたのだが、二人とも練習試合で都合が合わなくてな。時間の余裕もなかったし、こういった類のことに詳しいのは、あとは黄瀬くらいしか思い浮かばなかったのだよ。生憎、私は特に女性の友人に乏しいしな」
「えー。オレに言ってくれたってよかったじゃん」
おそらく、宮地の心情的にも、知らないに等しい黄瀬にコーディネイトされるよりは、知った高尾の方がいくらかマシだったに違いない。きっと、不愉快に思いつつも、高尾なら仕方がないという結論になる気がする。その程度には、宮地にも緑間の中の自分の存在を認められているはずだ。
しかし、緑間は唇を戦慄かせて、ぷいっとそっぽを向いた。
「揶揄われるのがわかっていて、お前にこんな恥ずかしいことを、相談できるわけがないのだよ」
緑間の吐露に、高尾は一瞬きょとんとした後、盛大に吹き出してしまった。普段あれだけ遠慮がないのに、こんなところで羞恥心を発揮しなくてもよかったのではないか。そうしたら、多分拗れることもなかっただろうに。
「ブハっ……!」
ツボに入ってしまった高尾を、緑間はそれ見たことかと咎めた。
「ほら! 絶対に笑われると思ったのだよ」
「いやいや、これは……真ちゃんが可愛いからいけないんだって! やだなー揶揄ったりしねーよ? ちょっとくらい弄るかもしんねーけど。ぶくくく……!」
「同じことなのだよぉお!!」
緑間は、ひーひーと腹筋を震わせて、膝に顔を埋めている高尾を、恨みがましげにじとりと睥睨する。そのまま投げやり気味にずるずると腰を落として、背もたれに体重を預けると、彼女にしてはだらしない恰好で空を仰いだ。拗ねてしまったようだ。
「もう……何なのだよ。おは朝の順位は良くないし、立て続けに知らない人に絡まれて疲れたし、先輩とは喧嘩になるし、高尾には揶揄われるし……上手くいかないのだよ……」
「……え。ナンパでもされたの? 真ちゃん」
笑いを収めながら、聞き捨てならない台詞に高尾が問えば、緑間は苦々しげにちっと舌打ちした。不愉快な気分を思い出してしまったのかもしれない。
「ああ。それはもうしつこかったのだよ。駅までの道でも、電車の中でも、駅構内でも声をかけられて……人と待ち合わせていると言っているのに、ちゃらちゃらと軽薄そうな男共が次々と纏わり付いてきて、鬱陶しかったのだよ」
どんだけ声をかけられてるんだよと、内心高尾は突っ込んだ。
(あー、そりゃあ宮地先輩も焦るわなー。こんな魅力的な姿をしてる可愛い真ちゃんがいるんだしなー)
自分が宮地の立場だったとして、同じ展開にならない自信がない。
宮地に対して腹立たしさを感じるものの、ご愁傷様と同情の念をも覚える高尾であった。
「結局、私が着飾ろうなどと考えたことが、そもそもの間違いだったのだよ。可愛いアイドルが好きだから、そういった格好をしたら、受験で疲れている先輩に喜んでもらえるかもしれないと思ったのだが……やはり私にこのような格好が似合うはずが」
ともすれば、延々とマイナス思考へと陥ってしまいそうな緑間を、高尾は待て待てと途中で無理やり遮る。それと、いい加減一言物申したい。
「いやいやいや、その格好チョー似合ってるし真ちゃん可愛すぎるってマジ天使……!!」
我慢しきれずに、高尾は、がっと緑間の左手を握って熱く力説した。虚を付かれたのか、緑間は、ぱちぱちと目を瞬かせる。やがて、ふふっと可笑しそうに、緑間の表情が柔らかく綻んだ。不意打ちの笑顔に、高尾の胸がきゅんと高鳴る。
「私なんて、可愛くなどないのだよ。……すまない、励ましてくれたのだな」
「本音だってば!」
「私にそんなことをぽんぽん口にする物好き、お前くらいなのだよ」
あーと高尾は天を仰いだ。確かに宮地は、可愛いだの甘さを含んだ言葉を、緑間に対してなかなか言わない。けれども、緑間は知らないのだろう。彼女同様、天邪鬼な宮地がよく口にする「可愛くない」を、額面通りに受け取ってはいけないのだということを。
緑間は崩れた姿勢を元通りきちんと座り直して、首をゆるゆると横に振った。微かに乱れた髪を右手ですくい耳元にかけながら、僅かに憂いを帯びた瞳で、自嘲めいた笑みを浮かべる。
「今日もあんなに可愛げのない対応をしてしまって……私はいつもこうだ」
「真ちゃんの気持ち、ちゃんと伝わってるって。ただちょっとすれ違っちゃっただけだよ」
「そうだといいが……宮地先輩に、呆れられてしまったかもしれないのだよ」
緑間は自信がなさげに嘆くが、高尾は断言できる。絶対にそれはない、と。緑間が考えている以上に、宮地は緑間に惚れている。この程度で、緑間を手放す人ではない。
悔しいなと、高尾は歯噛みする。
緑間をこんなにも一喜一憂させられるのは、きっと宮地ただ一人だ。その立場に、自分がなれなかったことが妬ましい。でも緑間は宮地を選んで、今もまだ、宮地だけを求めている。
彼女が泣いていたら、抱きしめて、すぐにでも攫っていくのに。徒に二人の関係を煽るつもりも、壊すつもりも毛頭ない高尾にとって、それは唯一の境界線だった。
今は早く緑間の心が穏やかになって、またいつもの彼女に戻ってくれるといいなと、高尾は願うだけだ。
高尾はゆるりと眦を和らげて、緑間をじっと覗き込んだ。
「大丈夫だよ。真ちゃんなら、宮地サンと仲直りできるよ」
「本当に?」
「本当。オレが言うんだから間違いない。だから元気出しなって、真ちゃん」
「高尾……」
高尾からの励ましに、翡翠の虹彩が揺れた。
「おっ……お前がいてくれて……その、助かったのだよ。私一人でいたら、ずっとつまらない意地を張っていたに違いない。だから……ありがとうなのだよ」
意を決した緑間は、照れくさそうに視線を逸らしながら、ぽつぽつと呟いた。素直じゃない緑間からの精一杯の礼に、それだけで報われた気持ちになるだなんて、自分でも安い男だなあと苦笑する。
「真ちゃん……!」
俯きがちだった顔を微かに上げてはにかむ緑間に、あれ、もしかしてコレって凄く良い雰囲気じゃないかと、高尾が彼女のたおやかな左手を掴んだ掌に、ぐっと力をこめたその時だった。
「つーか、いい加減その手を離せ、轢くぞ!」
聞き覚えのある声が、二人の耳に届いた。はっと声の聞こえた方へと振り返れば、汗だくになって、乱れた呼吸を整えている宮地が、必死の形相でこちらを――というより高尾一人を――睨みつけていた。
「宮地先輩」
どうして、とばかりに緑間が動揺に目を見開いた。
タイムアップ。いいところでヒーローは登場するもんだなと、高尾は内心呻く。名残惜しかったが、緑間から手を解いてホールドアップしてみせる。
「真ちゃん」
「た、高尾……。これはお前の仕業か!?」
腰を上げた高尾のシャツの裾を、緑間の左手が引く。狼狽えた緑間の面持ちは、突然現れた宮地の姿に、困惑の色を帯びていた。
「言いたいこと、ちゃんと言った方がいいぜ。真ちゃんらしくない」
息を呑んだ緑間の指を丁寧に外して、高尾はぽんと彼女の頭を撫でると、頑張れと発破をかけて踵を返した。
相対した宮地は、不機嫌な様子を隠しもしないで、じっとこちらを凝視している。高尾は、おー恐、とわざとらしく身震いをして、射殺されそうな視線を軽くいなした。
「誤解、解いておいてあげたんすから、あれくらいの役得は目を瞑って欲しいなー」
「うっせー! 虎視眈々と弱ってるところにつけ込んでんじゃねーよ、お前は。ほんっと油断なんねーな」
「あはは。今回はさすがに宮地サンに同情しましたから、相棒ラインで接しましたよ。メールだって送ってあげたじゃないっすか」
「……それは……悪かった」
さすがに尻拭いまがいなことをさせて申し訳ないと思ったのか、殊勝そうに呟く宮地に、高尾はやれやれと肩を竦める。ただ、緑間にアレなことをやらかした件については、むしゃくしゃが収まらないので、ちょっと脅しておくことにした。
宮地とのすれ違いざま、高尾は瞳を鋭く窄めた。元々目つきがきついので、より凶悪な表情になる。そこに薄ら笑いの一つも浮かべれば、余裕綽々な男の完成だ。煽られてせいぜい慌てるといい。高尾は、警告の意図を滲ませて、声を低くした。
「貸しておきますよ。でも、真ちゃん泣かせたら、今度は遠慮せずに奪いに行きますからね」
「チッ!」
「じゃ」
あからさまに舌を打って、苦虫を噛み潰したような宮地に内心苦笑しつつ、背を向けた高尾は手をひらりと振って公園を後にする。もう、高尾が心配することはないだろう。
(あーあ、本当にオレってば健気~)
さて、宮地には何を奢ってもらおうか。そんなことを考えながら、高尾は一人家路に付くのだった。
* * * * *
高尾の姿が見えなくなるまで見送ると、宮地がゆっくりとこちらを振り向いた。互いにどうにも視線を合わせづらくて、ぎくしゃくした気まずい空気が漂う。
まさかこんなに早く宮地と対峙することになろうとは予想もしていなかったので、緑間の思考は若干混乱している。心臓が、バクバクと煩く音を立てているのがわかった。
けれども、折角高尾がくれた契機だ。緑間は、覚悟を決めて息を吸い込んだ。
宮地も緑間の意図を察したのだろう。ベンチの方へ歩いてくると、緑間の前に立った。
「……私は悪くないと思っています」
開口一番これだ。やっぱり、可愛くなんてなれない。でも、こればかりは譲れない。
じっと宮地を見つめれば、彼はしっかりと緑間の視線を受け止めてくれた。
「おう」
「信じて貰えなかったことが、悔しかったです」
「俺が悪かった。すまん」
宮地が腰を折り、頭を下げた。もしかして呆れられたかも、という恐れは杞憂だった。
緑間はベンチから立ち上がって、宮地の正面へと歩いていく。緑間の気配に、宮地がぴくりと震えた。宮地の肩に手を添えて、覗き込むように腰を屈める。
「頭を上げて下さい、先輩」
緑間が促して、漸く宮地が顔を起こした。互いの眼差しが絡む。少し緑間を窺う風に、こわごわと表情を堅くしているのが、普段の宮地らしくなくて、何だか無性に可愛く映った。
「私も、浅はかだったのだよ。考えが足りていなくて、すみませんでした」
「いや。お前のせいじゃない。本当はわかってんだよ……。みっともねぇ……」
緑間も頭を下げれば、宮地は慌てて首を振った。
「……恐がらせたよな、ごめん」
「先輩じゃなかったら、赦してません」
その言葉にいくつかの意味を込めて呟くと、緑間はそっと宮地の手に触れた。宮地の掌は、ごつごつとしていて、男の人らしい手だ。こつこつと努力を重ねてきた、時に柔らかく緑間を包み込んでくれる、愛おしい大きな手。
緑間が取った手と反対の手で、宮地が緑間の頬を撫でた。なだらかに触れてくる指先に、ほっと安堵する。触れられるのなら、この手がいい。今なら素直になれる気がして、緑間は宮地の手の心地よさに、身を委ねて唇を開いた。
「……私は、今まで個人プレーが全てだと思っていました。それは、中学の出来事に起因していますが、私なら一人で何でもできるのだと思い上がっていました。でも、秀徳に来て、誠凛に負けてから、誠凛と、何より秀徳のみんなに、チームを信じてプレイをすることを改めて教えてもらいました。愚かだった私が、信じたいと思ったのは、秀徳のみんなだからです」
唐突に始めた緑間の話にも、宮地は神妙な顔で耳を傾けてくれている。緑間は、穏やかに目を細めた。
「その中でも、一番に信じるのなら、私は宮地先輩がいいのだよ」
この人が、どれだけ真摯に人事を尽くしているかを、緑間は見てきた。努力は決して嘘をつかない。我儘三昧だった緑間に対して、最初から態度を変えることなく、正々堂々と叱咤し、そのくせ見放さないで諭してくれた人だ。口は悪いけれども、面倒見がよくて優しいことを、緑間はちゃんと身をもって知っている。だから、宮地がいいと、緑間は彼を選んだのだ。
「私が宮地先輩を好きだという想いまで、疑って欲しくないのだよ」
宮地の双眸をしっかりと捉えて告げた瞬間、緑間は宮地にぎゅっと抱きすくめられた。
いきなりだったので驚いて力を入れてしまったが、伝わってくる熱と鼓動に、緑間もゆるゆると強張りを解いていく。包まれ慣れた宮地の匂いにドキドキした。
「悪い。そんな風に思ってくれてただなんて、知らなかった。余裕なくて情けねーな、俺……」
はーと嘆息してほんのりへこんだ宮地が、甘えるようにすり寄って、ゆっくりと緑間の髪の毛を梳いてくる。
「私も知らなかったのだよ」
「何がだ?」
「先輩が、そんなにも私のことを好きだっただなんて」
少しだけ意地悪な気持ちになって、したり顔の緑間は唇で弧を描いた。宮地は泡を食って声を張り上げる。
「はぁ!? 何だそれ」
「嫉妬するのは私のことが大好きだからだと、高尾が言ってました」
「よしあいつ殺そう」
宮地は、いい笑顔で青筋を立てた。
ややあって、視線をうろうろと泳がせながら、宮地は後頭部に手を入れると、ミルクティー色をした癖のある髪をわしゃわしゃとかき回した。照れているのか、うっすらと頬が紅潮している。
「……ああもう、どうせ高尾も言っただろ!? お前自分が綺麗で可愛いってことを自覚してくれよ頼むから。見た瞬間癒されたわ、この野郎。俺の好みどストライクできやがって……本当どうしてくれようかと……」
「!?」
吹っ切れた宮地から、ぽろぽろと面映い言葉が飛び出してきて、面食らった緑間は気もそぞろに弱々しく眉尻を下げた。
「お前スゲー可愛いことになってるし、ナンパされてるし、黄瀬がどうとかいうし、何かもう変な嫉妬にかられて、煽られてあんなことしちまって」
「か、かわ……!?」
「あ……? ああ。……可愛いぜ、緑間」
緑間がたじろいでいるのに気を良くしたのか、はたまた先ほどの仕返しか、宮地はふふんと口角を上げると、低い声で耳元で囁いてきた。
ぶわっと全身が熱を帯びていくのがわかる。
さっき高尾に言われた時には何とも思わなかったのに、宮地に同じことを言われただけでどうしてこんなにも心が乱れるのか。ふわふわと舞い上がってしまいそうだ。
「俺のためにっていうお前の気持ち、滅茶苦茶嬉しかった。だけど、やっぱり黄瀬にコーディネイトしてもらったっていうのはスゲー癪に障るから、どうせなら俺にコーディネイトさせろ。そうじゃなけりゃ、普段通りの緑間のままでいい」
「……先輩は可愛い格好を私がするのは嫌ですか?」
「嫌じゃねーけど。緑間がどんな姿でも可愛いなんて、俺だけが知ってればいいから、格好なんて気にしなくていいんだよ!」
「せ、せんぱ……!」
さっきから何なのだ。可愛いの安売りか。宮地は緑間を殺す気なのか。心臓はバクバクと聞こえてしまうんじゃないかと思うくらい煩いし、身体中の血液がぐらぐらと沸騰しそうに熱い。頬を上気させた緑間は、耐え切れずに宮地の胸に顔を埋めた。
「恥ずかしいのだよ!」
「俺の方がもっと恥ずかしいに決まってんだろ、この馬鹿! 轢くぞ!」
顔を伏せたせいで緑間は気づかなかったが、宮地も相当赤面している。今更とんでもない羞恥心がこみ上げてきたのか、宮地は落ち着かなくなってきょろきょろと周囲を窺った。幸いにして辺りに人はおらず、胸を撫で下ろす。こんなところ、見知らぬ人だとしても誰かに見られていたら、あまりにもばつが悪すぎる。一体何をやっているんだか。そう思ったら、何故だかおかしくなって、それで宮地はほんの少しだけ平静を取り戻した。
未だ恥ずかしさで悶死しそうな緑間を宥めるように、宮地は背中をぽんぽんと叩いてあやしてやる。
「お前がどっかしら抜けてて、ズレてんのは俺もわかってんだ。そもそも俺らは相性がいいかって言うと、そういうわけじゃないから喧嘩も多くなる。でも、喧嘩しながらでも少しずつお互い理解していきゃいいと思ってんだよ」
優しく耳元で紡がれる呟きに、緑間が茹った顔をそっと上げて、上目遣いでぼそりとぼやいた。
「先輩はちょっとキレすぎだと思うのだよ……」
「なんだと!?」
「でも」
「あ?」
「そんなところが好きなのだから、始末に終えないのは私なのだよ……」
「お前なあ……!!」
今度は宮地が緑間の肩口に顔を埋めた。耳まで真っ赤に染めて、ぶるぶると、小刻みに身体を震わせている。先ほど散々こそばゆい思いをさせられたので、意趣返しなわけではないがいい気味だ。
気分はお互い「穴があったら入りたい」だろう。どうしてこんな恥ずかしい告白合戦みたいな真似になったのだか。デレの応酬だ。それでも、言いたいことを言ったおかげで、分かれていた気持ちがやっと重なって、すっきりはしていた。
お互いがお互いに打ちのめされて、暫くいたたまれなさに無言を貫き通す。高ぶった想いが収まり、冷静に顔を合わせられる頃を見計らって、どうにか二人は身体を離した。
「……おら、仕切り直すぞ」
「……はい」
「とりあえず何だ……ショッピングいくか。まずは、勿体無いけど、それ、着替えんぞ」
「はい」
差し出された宮地の掌に、己の手を重ねる。繋いだ手をぎゅっと握って、緑間と宮地は顔を見合わせると、ふっと静かに唇を緩めた。
その後、やっぱりいつも通りちゃっかり隣にいる高尾の存在に対して探りを入れてみたところ、「高尾は下僕ですが、何か問題でも?」と言ってのけた緑間に、わかっているんだかわかっていないんだかと、また宮地が悶々とする羽目になったのは言うまでもない。
それでも少しずつ宮地を慮っての行動を取り始めてくれた緑間に振り回されつつ、二人は喧嘩交じりに、笑いながら日々を過ごしていくのだった。