タイトルまんまなお話です。今回は高緑です。
「今日の11位は蟹座の貴方。災難に振り回されっぱなしの一日!でも気を落とさずにじっと我慢。ラッキーアイテムは今治のオーガニックコットンバスタオルでーす。拾いものをすると、この先いいことあるかも?」
おは朝は、緑間真太郎限定で良く当たる。
その日は、目覚まし時計の電池が切れてしまい、アラームが鳴らずに起床が遅れた。朝から必修科目があったので、取るものも取り合えず慌てて大学に向かったのだが、目当ての講義は教授が風邪のため臨時休講。寝坊で朝御飯をくいっぱぐれていたため、学食に行ってみれば、飲みたいと思ったお汁粉は売り切れ中。図書館へ予約していた本を取りに足を運んだものの、手違いで別の人物に貸し出しされ、黄瀬からのコールにスマホを取り出せば、通話の最中に充電切れである。
どうにか授業を終え、電車に乗ったら乗ったで信号故障のため電車がストップ。多大な遅延の末に最寄り駅に辿り着き、自宅までの道のりを歩いていると、今度は急な夕立に降られた。普段なら折り畳み傘を常備している緑間であったが、違う鞄で外出した時に通学用鞄に移し変えるのを忘れてしまったのか、傘は見当たらなかった。丁度小さな公園の脇を通っていた最中で、辺りを眺めても、雨宿りできるような軒先は視認できない。
(ぬかったのだよ……。やはりバスタオル2枚では、人事を尽くしきれなかったか)
しとしとと降る雨に打たれながら、緑間ははぁとため息をついた。朝からこっち、微々たる不幸が連続で続いている。
現在持っているラッキーアイテムは、オーガニックコットンバスタオルというだけで、肝心のブランドまで満たせていなかったため、補正が甘くなったのだろう。
緑間にとって、もはやある程度の災難は既に日常に組み込まれており、げんなりと気力を奪われはするものの、そこまで滅入ることにはならない。緑間も慣れたもので、生死に関わることにならなければ、まだマシと思っている節もある。何せ鉄骨が空から緑間の横わずか1メートルに落下してきたなどという、あわやな経験を幾度も繰り返しているのだ。些細な不幸に対する感覚が麻痺してしまうのも、仕方のないことなのかもしれない。果たしてそれは、彼にとって幸なのか不幸なのか。
自分は濡れたとしても、荷物が濡れるのは困る。緑間はすかさずバスタオルを取り出して、鞄を守るために包み込んだ。マンションまであと少し。走って帰れば、さして被害を受けることもないだろう。
くよくよしても仕方がない。意識を切り替えて、足を踏み出そうとしたその時だった。
「にゃあ」
雨音にまぎれて、微かな鳴き声が耳に届いた。
緑間はぎくりと身を固くして、周囲をきょろきょろと見回す。
聞き覚えのあるこの声は、緑間の天敵のそれだ。
「にゃあ、にゃあー!」
やがてがさがさと生垣を掻き分けて、緑間の目の前に出てきたのは、小さな小さな黒猫だった。
「……っ!」
猫を苦手とする緑間は、かわいそうなくらい顔を青くして、その場から反射的に後ずさった。どれだけ小さかろうが、どれだけ気性が大人しかろうが、刷り込まれた苦手意識というのはなかなか消え去るものではない。声をあげなかっただけでも進歩したのだ。
しかし緑間の警戒などものともせずに、人懐っこいのか逃げることもしないで、子猫はみゃあみゃあとか細く声を立てている。だが、程高い生垣を降りることができず、高さを窺うように覗き込んで、残念そうに長く鳴くと子猫はその場にじっと佇んだ。黒猫がこれ以上近寄ってはこれないのがわかって、緑間はほっと胸を撫で下ろした。
普段、この道を通っているが、公園に猫など居ついていなかったはずだ。首輪やリボンなどもつけておらず、飼い猫にも見受けられない。ということは、ここ最近で捨てられたのだろうか。
生後3ヶ月程のまだまだ幼い猫は、栄養が足りていないのか少しばかりやせ細っていて頼りない。ただでさえ気温が下がっている上に、先ほどからのにわか雨のせいで凍えているのか、ぷるぷると全身を震わせている。きっとこのまま放置したら、寒さで死んでしまうかもしれない。
可哀想だとは思う。けれども緑間は猫が苦手であったし、一人暮らしだ。どれだけ気の毒だと思ったところで、安易に面倒を見てやることなどできない。
何ともやりきれない気持ちにもやもやしながら、首を傾げながらこちらを仰いでくる猫を凝視して、緑間ははっと息を呑んだ。
雨に濡れそぼって、綺麗な黒毛はへたりと身体に張り付いている。乾かしてあげればきっと艶やかな毛並みになるだろう。そして何より緑間の意識を奪ったのは、つり上がってアーモンドのように弧を描く特徴的な瞳だ。虹彩は鮮やかなオレンジ色だった。
黒とオレンジの色を合わせ持つ猫。その姿は、何だか酷くある人物を彷彿とさせて、緑間の心を掻き乱した。
「ぐ……」
緑間の心境など知らない子猫は、くりくりした目を三日月みたいに細めて、にゃあと鳴く。緑間が猫みたいだとずっと思っていた男も、良くこんな風にオレンジ色の瞳を細めて笑っていた。
一度気づいてしまったら、放っておけなくなってしまったのは、かの人物が緑間の心を占める割合が高すぎたからだろう。
とっさに頭の中に浮かんだのは、今朝のおは朝の言葉。拾いものはいいことがある、だったか。つまり、これは決められていた出会いなのかもしれない。
逡巡したのは、ほんの一瞬。
「……くそっ」
緑間はひっそり毒づくと、鞄の中に収めていてたもう一枚のバスタオルを取り出した。
「おい、お前」
「にゃあ?」
緑間の呼びかけに反応したのか、子猫はぴくんと耳を揺らした。
緑間と子猫の視線が交錯する。猫は緑間にとって目の敵だ。幼い頃、何をした訳でもないのに、手を鋭い爪で引っかかれた。幼少の頃に植えつけられた恐怖心は、未だ緑間のトラウマを刺激する。けれども目の前の子猫の瞳は酷く澄んでいて、緑間を害するものには到底思えなかった。
一度深呼吸をして、緑間はビクビクする内心を大丈夫だと押さえ込む。自分はもう幼くもないし、子猫はこんなにもか弱い。緑間はそっとバスタオルを広げて、子猫を囲い込んだ。これで逃げてしまえばそれまでだが、子猫は不思議そうにきょとんとしている。
「いいか、絶対に爪を立てるんじゃないのだよ!?」
相手は猫だというのに、緑間は律儀に言い聞かせてから、小さな身体をふわりと包む。子猫は暴れることなく、バスタオルの中に静かに収まった。緑間はほっと安堵のため息を漏らした。
ずぶ濡れの子猫をゆっくりと持ち上げると、予想よりも随分軽い。ちっぽけな肢体は、力をこめたら簡単に押しつぶしてしまいそうで戸惑う。子猫は包まれた柔らかいバスタオルからぽすんと顔を出すと、緑間を見上げてにーと高く鳴いた。何となくだが、嬉しそうな気配を感じ取る。
「行くぞ」
緑間はそのまま猫を左手で抱いて、雨の中を疾走し始めた。
数分走って、緑間は自室に辿り着いた。親が用意してくれたマンションは、学生の緑間には過ぎたもので、部屋は広く新しい上にペット可の物件だ。さすがにペット可でなかったら、猫を拾って帰ろうなどとは思わなかっただろう。
緑間は抱えていた子猫をバスタオルごと玄関先のフローリングに下ろすと、鞄にかけていたバスタオルを手にして、眼鏡を取り濡れた顔を拭いた。子猫と攻防していたせいで、思ったより時間を食ってしまい、随分雨に打たれてしまった。髪からぽたりと水滴が零れ落ちてくる。荷物は大丈夫かと確認したところ、鞄の表面は若干浸水したが、中身の教科書やノートやらは湿気を含んでしまったものの、どうにか無事だった。その分、緑間の全身は濡れ鼠で、このままでいたら風邪を引いてしまいそうだ。
ざっくりとバスタオルで全身を拭い、ぐちゃぐちゃになった靴下を脱いでいると、包まれていたバスタオルから脱出した子猫が、フローリングでぶるぶると全身を震わせている。床の上に、ぱらぱらと細かく水滴が飛び散った。
「こら、そこで水を飛ばすんじゃないのだよ」
緑間が叱ると、子猫は何食わぬ顔でにゃーと鳴いた。わかっているのだかわかっていないのだか。
緑間はとりあえず子猫を放置して部屋に上がって、被害が広がる前に鞄の中身を机の上にぶちまけた。湿った鞄自体はハンガーにかけてとりあえず放置。後でドライヤーを当てようと考えつつ、着替えと新聞紙を手に取って返し、ずぶ濡れの靴に丸めて詰め込んだ。
その間、子猫は所在なさそうに緑間の後ろを付いてくる。インプリンティングかと苦笑したものの、ちょろちょろされては踏んでしまいそうで、ひっそりと足元に注意を払いながら動く。緑間がばたばたしているうちに、泥だらけだった子猫の足によって、フローリングは汚れてしまった。
緑間は惨状を横目に、やれやれと床に落ちているバスタオルで子猫を再び包んで捕獲すると、脱衣所に向かった。
猫も自分も、身体を温めて清めなければ。
まずは猫だ。
風呂場の洗い場に解放してやると、子猫は興味深そうにきょろきょろと辺りを見回している。
猫は水が嫌いだという話をどこかの本で読んだ気がするが、平気なのだろうか。しかしこの泥だらけのままでは家に置いておけない。緑間は不安になりながらも、洗面器にぬるま湯を張る。
「これから軽くお前を洗うが、いいか、爪を立てるなよ?」
湯の流れる音にびくびくしている子猫に言い聞かせて、緑間はそっと身体を持ち上げ膝の上に抱きかかえる。少し暴れたが、大丈夫なのだよと声をかけて落ち着かせると、子猫は段々と大人しくなった。
勝手が分からないながらも、すっかり冷え切ってしまった身体を温めてやる意図もあり、洗面器の湯を背中からゆっくりかけてやる。
「にゃあ! にゃあぁ!」
まるで嫌々と言っているように、子猫は身体を捩らせる。
「落ち着くのだよ。泥だらけでは、お前を家においておくことができないだろう? 我慢するのだよ」
逃げ出しそうになる子猫を宥めながら、緑間は手足や毛に付いている泥を丁寧に落としていった。途中、怯えた子猫に爪を出されてしがみつかれたりもしたが、かろうじてひっかかれることはなかった。流石に急に服の上から爪を立てられた時には、緑間もびっくりしたが、それ以上に猫もびっくりしていたのが何だかおかしかった。
一通り湯で洗って綺麗にしてあげてから、緑間は子猫を脱衣所に連れ、新しいタオルで全身を拭ってやる。丁寧に湯で温めてあげたので、子猫の身体はすっかりホカホカだ。簡単にタオルドライをしてやると、子猫はもういいとばかりにするりと緑間の手から免れた。大体乾いたので、あとは自然乾燥で問題ないだろう。緑間が想像していたよりずっと、この子猫は聞き分けが良くて助かった。
子猫の世話が終わったので、今度は緑間の番だ。いい加減寒い。緑間は自らの手で身体を抱き締めてぶるりと震えると、肌に張り付いて不快な服を脱ぎ洗濯機にまとめて放り込んで、自らもシャワーを浴び始めた。
熱い湯を肌に受け、冷え切った身体を温めると生き返ったような気持ちになる。はーと湯を受けながら長く息を吐いて、緑間は一体何をやっているのかと自嘲気味に唇を歪める。しかし拾ってしまったものは仕方がない。おは朝のお告げもあることだし、こうなったらきちんと責任を持って飼うしかない。
今まで猫など飼ったこともないので、落ち着いたらきちんとパソコンで猫の飼い方を調べたり、必要なものをそろえなければと算段した。
じっくりとシャワーで体温を上げてから風呂場の扉を開けると、目の前にちょこんと猫がしゃがみこんで行儀良く待っていた。脱衣所の扉を開けていなかったせいで、どこにもいけなかったのだろう。一瞬黒い毛玉が落ちているのかと錯覚して、緑間はびくりと反応してしまった。
「少し待っているのだよ」
タオルで全身をガシガシと拭いながら、緑間はてきぱきと着替える。髪が生乾きだったのでとりあえず首にタオルをひっかけ、猫を抱き上げて脱衣所を出た。まだ玄関のフローリングが片付いていないままなので、折角洗ってあげた身体をまた汚されてはことだ。緑間はリビングに一旦子猫を追いやってから、雑巾を取ってきて玄関前を清めた。
「もういいのだよ」
雑巾を洗面所で濯いでバケツにかけ、緑間はキッチンに足を向けた。冷蔵庫から牛乳を取り出して、水と半分ずつたっぷりとマグカップに注ぐと、レンジにかけて軽く温める。一度取り出してそれを1/3ほど平皿に移し、もう一度レンジにかけてしっかり温めてから、マグカップにティーバッグと砂糖を放りこんだ。家事は壊滅的なまでに苦手な緑間であったが、飲み物くらいはかろうじて作れるのだ。
緑間が飲み物を淹れている間に、子猫が足にじゃれて甘えてきたので、先ほどの平皿を与えてやる。お腹が空いていたのだろう。子猫はおいしそうに薄めのミルクをぴちゃぴちゃと舐め、あっという間に皿を空にしてしまった。
口周りの毛を白く染めて、子猫は満足そうに舌をぺろりと這わせる。緑間がミルクティを手にリビングへ足を向けると、子猫も慌てて緑間の後に続く。ソファに腰掛ければ、まだ身丈の足りない子猫は上に上がれずににゃーにゃーとせかすので、緑間は抱えて膝の上に下ろしてやった。
ミルクティを口にしながら、膝の子猫を撫でてやる。緑間の大きな手に安心するのか、子猫のオレンジの瞳は気持ちよさそうに細くなっていく。乾いた黒の毛並みは艶やかでやっぱり触り心地が良い。猫嫌いの緑間が、こうして猫を撫でられる程懐かれているのが、どうにも不思議だった。
(やっぱりどことなくあいつに似ているのだよ)
それだけで、猫に対する恐怖心が薄らぐ。もうすっかり、緑間はこの子猫のことが脅威ではなくなっていた。
緑間は子猫を構いながら、ふとここのところずっと音信が途絶えがちになっている、高校時代の友人の顔を思い浮かべた。
「高尾……」
この黒猫に似た友人――高尾和成は、現在緑間とは異なる大学に通っている。高校時代、毎日のように、それこそ家族以上に共に時間を過ごした高尾とは、大学に通いだしてから徐々に疎遠になりかかっていた。互いに大学の授業や新たな友達付き合い、バイトなどで忙しく、タイミングが合わなくてすれ違いが多くなったせいだ。最後に会ったのは、かれこれ2ヵ月前ほどだろうか。
元々、メールや電話などで緑間に誘いをかけてきたり、下らない会話を始めるのは専ら高尾からだったこともあり、緑間は連絡を取っていいのかどうか躊躇っていた。
緑間は高尾のことを好いていた。友情ではなく、恋情の意味で、だ。
この想いを高尾に告げるつもりはさらさらないし、隠し通すつもりでいる。それは今も変わらない。何せ緑間と高尾は男同士だ。自分がゲイのつもりもないし、高尾への好意を自覚した時には散々悩みもしたのだが、今はそれはそれとしてこの気持ちに折り合いをつけている。しかし中学時代に付き合っていた女の子がいたという高尾は、至ってノーマルだ。相棒から実は好意を寄せられているなどと知ったら、どんな風に思われるだろうか。緑間はそれを知るのが恐かった。
ただ時々、無性に高尾への想いで胸が痛む。笑顔を向けられれば嬉しいし、触れられればドキドキする。友達のラインを超えないと決めたものの、高尾に会えばぐらついてしまいかねない。
だから今のこの状況は、自分の気持ちにケリをつける良い機会なのではないか。縁が切れてしまえば、高尾へのこの想いもいずれ風化していくのではないか。そのほうがお互いにとって良いのではないのか。そんなことを考えてしまい、緑間は身動きが取れなくなっていた。
「高尾は、今どうしているだろうか」
この猫を拾った時に、無性に放っておけなくなったのは、ずっと高尾に会えないままで緑間が寂しかったからだ。我ながら女々しいと、緑間はふっと自嘲する。
そんな緑間を、子猫が目をパチパチ瞬かせながら首を擡げてくる。どうしたの?といわんばかりに、オレンジの虹彩がじっと緑間を捉える。高尾もよく、こうやって真っ直ぐ緑間のことを見つめてきたなと懐かしさにかられた。
「高尾……」
気がつけば、緑間の頭を占めるのは高尾のことばかりだ。胸にこみ上げてくる切なさに、嘆息混じりに高尾の名を呟けば、子猫の耳がぴくりと揺れた。
「にゃぁん」
返ってきたのは、まるで返事のようだった。
「……は?」
予想外のことに、緑間は面食らう。子猫は機嫌よさそうに、鼻とヒゲをひくつかせている。
まさかと思い、緑間は恐る恐るもう一度その単語を口にした。
「……高尾?」
「にゃあ?」
「……」
これはもしかしてもしかすると、緑間が何度か零していた高尾の名を、子猫が自分の名と認識をしてしまったのだろうか。確かに撫でながら呟いていたのでは、勘違いされてもおかしくない。しかしそれにしたって高尾である。まずい。緑間は頭を抱えそうになった。
「クロ助! お前はクロ助なのだよ!」
泡を食って今決めた名で呼んでみても、今更膝の上の子猫は反応しない。それどころか、誰のことだと、くああとあくびを漏らした。
こうして緑間に拾われた高尾似の子猫は、「タカオ」と名づけられることとなった。カタカナになったのは、せめてもの緑間の抵抗であることをここに記しておく。
緑間とタカオの生活は、想像していたよりずっと順調だった。
やんちゃな盛りで好奇心は旺盛なものの、タカオは気性の大人しい猫で、とても賢く、あまり緑間の手を煩わせることがなかった。猫の飼い方などさっぱりわからなかった緑間だったが、ネットや家族、猫好きの同級生に話を聞きながら、どうにかかいがいしく世話をしている。
もちろん最初はあらぬところに粗相をされたり、空き時間に大学から様子を窺いに帰ってみれば、ボックスティッシュやラッキーアイテム、クッションをダメにされていたり、部屋から姿が見当たらなくて肝を冷やしたら、ラッキーアイテムのぬいぐるみの中にまぎれて寝こけていたりと、およそ猫らしい悪戯はあったものの、今のところ大きな問題を起こすこともない。
多忙な緑間が講義などで長く部屋を空けてしまうこともあり、その間部屋で一匹にしてしまうことだけが心配だったのだが、十日ほど反応を窺ったところ、一匹にしておいてもさして問題なさそうだと判断を下した。
どうしても帰りが遅くなってしまう時があって、実家に頼んで預かってもらったところ、タカオは一日ですっかり緑間家のアイドルになってしまっていた。こんなところも高尾によく似ている。おかげで、何かあった時の緊急避難の場所も確保できた。
タカオは、叱ったり躾けたことはきちんと聞き分ける、手のかからない行儀の良い猫に成長している。高尾本人もハイスペックだったが、名をもらった猫までハイスペックとは恐れ入る。
それどころか、タカオは緑間の生活にほんのりと彩りを添えてくれた。
一人暮らし故、部屋に帰っても誰もいない空間に「ただいま」と言っていた毎日だったが、今はちりりと鈴を鳴らしながらタカオが出迎えてくれる。お帰り代わりににゃあんと声を上げて、緑間に擦り寄ってくるタカオに心がほっと安らいだ。
タカオの首には、先日から鈴の付いた赤い首輪が取り付けられている。
というのも、買出しに出た緑間の後に付いて、閉まる前の玄関扉をするりと抜けてしまったことがあったからだ。部屋のドアが、オートロックだったのが災いした。脱走に気づかぬまま、緑間がコンビニから戻り、エレベーターホールでタカオがうろうろしているのを発見した時は、本当に驚いた。
以来、万が一どこかに抜け出して迷子になっても困らないよう、緊急連絡先を記載した首輪を取り付けることとなった。
赤い首輪にしたのは、いつだったか高尾が妹にもらったという赤いカチューシャをつけて時折部活をしていたのが印象的だったのを、ふと思い出したからだ。益々高尾を連想させる様相になってしまったとはいえ、首輪は黒毛に良く映えた。
タカオは、徐々に緑間の生活の中に溶け込んでいった。
パソコンでレポートを書いていれば、暖かいのかキーボードの上に寝そべって邪魔をしてきたり、寝床を用意してやったにも関わらず、いつの間にかゆたんぽよろしく緑間のベッドにもぐりこんで暖を分け合ったり、読書をしていると緑間の膝の上で丸まって眠ったり。
あんなに苦手だった猫と共に暮らしているというのに、何だかんだと情が沸き、緑間もタカオを可愛いと思えるようになってきた。
そんな風に、タカオが緑間の飼い猫となって約三週間が経ったとある夜――。
ピンポーンとチャイムが鳴った。丁度タカオに餌をあげていた緑間は、時計を確認して首を傾げた。午後7時を少し回ったところ。こんな時間に一体誰だろう。
ドアフォンに出て、緑間は目を瞠った。
液晶に映っていたのは、カメラに向かってにかっと笑いながら手を振っている高尾だった。
慌てて受話器を取って、緑間は叫んだ。
「高尾!?」
「やっほー! 真ちゃん、久しぶり~!」
「久しぶり~、じゃねえのだよ!? 連絡もなしに一体何なのだよ!?」
それとも携帯にあらかじめ連絡が入っていたのに、緑間が気づいていなかっただけなのだろうか。急いでジーンズのポケットからスマホを取り出して確認するが、高尾からのメールは入っていない。
「あはは、急にごめん。真ちゃん、ねえ、ドア開けてよ~。さみーよー」
緑間の部屋のドア前で、高尾は身を縮めている。緑間はちっと舌打ちをして受話器を叩きつけるように戻すと、玄関へ足を向ける。チェーンと鍵を外し、勢いに任せてドアを開ければ、高尾が白い息を吐きながら、寒さに頬を赤く染めてへらりと笑った。
「……何をしにきたのだよ」
「真ちゃんってばダチにつれなーい。つーか部屋入っていい? 高尾ちゃん寒くて死んじゃう!」
「って、おい、高尾!!」
まあまあと窘めながら、緑間の腕の間をかいくぐって、高尾が玄関に上がり込んでくる。緑間はむっと眉を顰めたのだが、ややあっていつものことかと諦め気味にため息を付いた。チェーンをかけ直している間に、高尾は勝手知ったる緑間の部屋と、靴を脱いでちゃっちゃとスリッパに履き替えている。
「バイトが早めに終わってさー。近くを通りかかって、そういや最近真ちゃんと連絡取れてなかったなって思ったら、無性に会いたくなっちゃった。えっと、何ヵ月ぶり? 2ヵ月くらい?」
「……3ヵ月なのだよ。全く、来るなら来るで連絡くらいよこさんか」
「んー、悪ぃ。オレも急だったし、いたらラッキーくらいの気持ちでいたから」
話しながら玄関からリビングに移動していると、前方を歩いていた高尾が不意に立ち止まった。突然だったので、緑間は高尾の背中にぶつかってしまう。
「……真ちゃん」
「いきなり止まるな! どうしたのだよ?」
「何あれ」
高尾が指を指したのは、リビング脇でミルクの入った小皿を嘗め尽くし、満足そうに毛づくろいをしている黒い毛玉だった。しまった、と緑間は内心焦った。高尾が来たことで、タカオのことがすっかり頭から抜け去っていた。
狼狽を隠すように、緑間はかちゃりと眼鏡のブリッジを押し上げる。
「……見た通り、猫だ」
「猫ぉ!? ちょ、どうしたの。お前、猫苦手じゃなかったっけ!?」
「……色々あって拾ったのだよ」
「はあ!? 猫ときたら目の敵にして、悲鳴を上げてオレの後ろに隠れてた真ちゃんが……。オレが暫く来ない間に、真ちゃんに何があったの!?」
「煩い。あと悲鳴も上げてないし、お前の後ろになど、隠れていないのだよ!」
「あー、はいはい。つーか、猫平気になったわけ?」
「……こいつだけだ。こいつは他の猫などとは比べ物にならないくらい賢いし、無闇に爪を立てないのだよ!」
「真ちゃんの親バカ発言……だと……!?」
緑間と高尾のやり取りを、毛づくろいを終えた黒猫は、じっと仰いで凝視してくる。知らぬ人間がやって来たせいか、タカオの視線は高尾の方に注がれていた。それを受けて、高尾が上からタカオを覗き込む。
「なあなあ。こいつの名前、なんて言うの?」
「……クロ助だ」
「相変わらずその名前のセンス何なの。ラッキーアイテムの蛙の置物で、そんな名前のやつあったよな」
一瞬返答に詰まった緑間であったが、正直に言えるはずもなく、最初に名づけるはずだった名前を出す。すると、ぶっはと高尾が腹を押さえて吹き出した。相変わらず、高尾の笑いのツボは良く分からない。
「クロ助っつーのか、お前。クロ助~、よしよーし」
高尾は酷く楽しげな様子で子猫の前にしゃがみこんで、人差し指でちょいちょいと頭を撫で始めた。しかしタカオはきょとんと小首を傾げている。当たり前だ。黒猫の本当の名前は、クロ助ではないのだから。緑間はひやっとする。
「お。コイツ人懐っこいなー」
くるくると指先を目の前で上下左右に動かしてやれば、タカオはうずうずと尻を揺らして無邪気に高尾の指先に飛び掛ってじゃれ付いている。
「可愛いじゃん、クロ助」
「……高尾、飲み物くらい出してやるから、さっさとソファの方に行くのだよ。そこにいられては邪魔だ」
「へーい」
「にゃあ」
しっしっと手を振って追っ払うと、高尾とタカオが唱和する。あ、と緑間は思わず押し黙った。意識せずに名前を呼んだから、猫のタカオまで反応してしまった。
「よっしゃ。クロ助、いくぞー」
高尾はタカオを高い高いしながら抱えて、ソファへと移動していく。どうやらタカオのリアクションに別段違和感は持たなかったのか、緑間はほっと肩の力を抜いた。
不可抗力でついたとはいえ、黒猫の名前が実はタカオだなんて知られたら、何と言われるかわかったものではない。それ以上に、羞恥心で死ねる。
さてどう誤魔化したものか。湯を沸かしつつ、緑間は戸棚からドリップコーヒーを取り出して、マグカップにセットしながら必死に思案する。けれども急な高尾の来訪に、慌てている気持ちと浮かれた気持ちとがない交ぜになって、緑間の心はそわそわと浮き足立ち、纏まる思考もちっとも纏まらない。
ちらりと横目で窺えば、ソファに陣取った高尾は、その辺に転がっていた猫用おもちゃを使って、うりゃうりゃとタカオを構い倒して遊んでいるようだ。タカオが動くたびに、ちりんちりんと凛とした鈴の音が小さく響いた。聡い高尾のことだ。いずれは、クロ助と呼ばれても猫が反応しないことに気づいてしまうだろう。
全く打開策が浮かばないまま、うだうだしている内にコーヒーを注ぎ終えてしまった。緑間は自分の分にだけ牛乳と砂糖をたっぷり入れ、ボロを出さなければ暫くの間はどうにかなるだろうと、半ば投げやりな気持ちで腹を括った。
マグカップ二つを手にして、リビングへと向かう。先ほどからちりちりと鳴っていた鈴の音は、いつの間にか止んでいた。高尾は緑間に背を向けたまま、微動だにしない。何かおかしい。
「おい?」
変に沈黙の降りたリビングに、緑間はいぶかしげに声をかける。高尾がびくりと肩をはねさせた。
「にゃーん」
緑間が来たことで、高尾の膝からタカオがしゅるりと飛び出し、足元に擦り寄ってくる。鈴の音が聞こえないと思えば、何故かその首からは付いているはずの赤い首輪が、いつの間にやら消えていた。
「ん? お前、首輪はどこにやったのだよ……?」
「真ちゃん……」
タカオへと疑問を投げた緑間に、高尾が振り返って呆然と見上げてくる。その顔は微かに赤みを帯びて、戸惑いの色が浮かんでいた。
「この猫の首輪に、タカオって名前が書いてあるんだけど、どういうことなの?」
首輪は高尾の掌の上にあった。その首輪には念のためと迷子札がつけてあり、タカオという名前と緑間の携帯電話番号が記してあったのだ。失念していた。
「!?」
高尾の指摘に、ひゅっと緑間は息を呑んだ。バレた。終わった。隠し事が発覚してしまった羞恥心から、ぶわと緑間の頬に熱が集まってくる。
流石にここまで即座に発覚してしまうとは正直予想していなかったので、緑間の混乱は著しい。
「ち、違うのだよ!?」
すっかり余裕をなくしてしまった緑間が後ずさる。けれどもタイミング悪く、足元にタカオがじゃれついていて、緑間はバランスを崩して危うくひっくり返そうになった。驚いたタカオが、にゃあと甲高い声を上げて玄関へと逃げていく。
転びこそしなかったものの、手のマグカップが揺れて、ぱちゃっとフローリングにコーヒーが零れた。幸いにして手にはかからなかったのだが、危ないと高尾が血相を変えた。
「ちょっと、真ちゃん落ち着いて! マグカップ割りかねないから、とりあえず一旦それ置けって!」
「あ、ああ……」
ソファから腰を浮かせた高尾が、緑間からマグカップを奪い、ローテーブルの上に避難させた。そして半ば呆けている緑間の手を取り、ゆっくりとソファへ導いて座らせる。パニック気味の緑間に代わって、高尾は床に散ったコーヒーをティッシュで片付けてから、項垂れている緑間の隣に腰を下ろして相対した。
「……見てしまったのだな」
「うん」
「……お前を殺して、オレも死ぬのだよ」
「だから落ち着けってば、真ちゃん! 深呼吸しようぜ!?」
狼狽えてあらぬことを口走る緑間を宥めるように、ぽんぽんと肩を叩いてくる手が優しくて泣きたくなる。緑間は促されるまま、静かに呼吸を整えた。
「……で。どういうことか話してくれる?」
緑間の動揺が収まってきたのを見計らった頃に、高尾は有無を言わさぬ雰囲気でにっこり笑う。この男が逃してくれるはずなどなかった。
威圧感すら感じる笑顔に耐え切れず、緑間はぐっと唇を引き結んで、ふいと視線を逸らした。
説明を求められたところで、緑間には返す言葉もない。
例えば、これは不可抗力のネーミングだったのだと、正直に告げたとしよう。そうなると、高尾のことだ、その過程についての詳細を追求してくるだろう。高尾を想って、高尾の名を何度も呟いていたら、猫が自分の名前だと認識してしまっただなんて、口が裂けても言えるはずがない。
そもそも飼い猫に友達の、しかも男友達の名をつけるなど、普通はありえるのだろうか。緑間にはよくわからない。家族に預けた際、高尾に似ていたからと告げた時に「あっ、わかる!」と笑って流されたのは、高尾と親しく付き合いがあり、全体的にほわーんとしている緑間の家族ならではの気がする。
対外的に猫嫌いで通っている緑間が、高尾を彷彿とさせる猫を拾って、あまつさえタカオと名前がついてしまった時点で、やっぱり普通はアウトだろう。
数秒の間でフル回転された賢い頭が導き出した結論は、言い逃れなどできない、だ。詰んだ。何を話しても語るに落ちそうだし、誤魔化しも高尾は通じなさそうで、緑間は口を噤むしかできなかった。
八方塞がりになった緑間が、最終手段黙秘権を行使していると、だんまりに痺れを切らした高尾が、やれやれとため息をついた。
「真ちゃんが何も言わないなら、オレの良いように受け取るけど。そんなにオレに会えないのが寂しかった?」
「なっ……! 勘違いするんじゃないのだよ! そんなこと、あるわけが……!」
ついいつもの癖で、かっとなってつっけんどんな返しをしてしまう。しかし高尾は緑間の言葉を途中で遮って、ぽつりと呟いた。
「……オレは寂しかったよ?」
「高尾……?」
「なあ。アイツはオレの代わり? オレの代わりに可愛がってたっていうの?」
高尾は酷く不愉快そうに、眉間に皺を刻んでいる。
険しく鋭い瞳に捕らわれてしまいそうで、思わず身じろぎした緑間の両腕を、高尾は離さないとばかりにしっかりと掴んだ。退路を塞がれる。どうしようと、内心たじたじの緑間は当てもなく視線を彷徨わせることしかできなかった。
「……そんなのズリーよ」
「は?」
「こんなことされたら、オレ、真ちゃんのこと諦めなくていいのかなって、期待しちゃうじゃん!!」
「高、尾?」
高尾は一体何を言っているのだろう。発せられた言葉を上手に噛み砕けなくて、緑間は唖然とする。
緑間をじっと見上げてくる高尾の瞳は、いつの間にか酷く熱を帯びていて。情熱的な眼差しに、緑間は思わず息を呑んだ。段々ととろりとした蜜のように濃密になっていく場の雰囲気にいたたまれず、高尾から逃れるように小さく俯く。
「どうしてオレが真ちゃんにずっと連絡しなかったか、わかる?」
「忙しかったからでは、ないのか……?」
「……距離とか、時間とか、少し置いたら、オレのお前に対する気持ちも、落ち着くのかなって思ったんだ」
それではまるで、自分が考えていたことと同じではないか。
どきんどきんと、緑間の鼓動は煩いくらい高鳴っている。このままだと心臓が壊れてしまうのではないだろうか。ぐらぐらと血液が沸騰してしまいそうなほど、体中が熱くてたまらない。思考は纏まらず、視界はくらりと眩暈を覚えそうだ。高尾のせいで、さっきから緑間は翻弄されっぱなしだ。
「でも全然ダメだった。会いたくてたまんなくなって、真ちゃんところに来たらこれなんだもん……。オレ、己惚れてもいいんだよね?」
高尾は腕を掴んでいた手を外し、そのまま緑間の両頬を掌で覆う。肌に触れられて、高尾の指先が微かに震えていることに緑間は気づいた。はっと顔を上げた緑間を安心させるように、高尾は緩やかに相好を綻ばせた。
「真ちゃんが、すきだよ」
「た、かお」
「緑間が、好きなんだ」
「……っ! 馬鹿め!」
ぶわ、と胸の中から沢山の感情が溢れてくる。もっと言いたいことがあるのにも関わらず、上手く言葉にならなくて、結局最初に出てきたのは、可愛げのない憎まれ口だった。
「オレが……っ、お前から連絡のなかったこの3ヵ月、どんな気持ちでいたか……っ!」
「うん。ごめん……。後でいっぱい言い訳するから、今は真ちゃんの気持ち、聞きたい」
高尾のオレンジ色の瞳が、優しく緑間を捉える。高尾は唇を戦慄かせた後、きゅっと引き結んで、緑間が口を開くのをそわそわした様子で待っている。それが何だか餌をねだってくるタカオとそっくりだったから、緑間はつい軽く笑みを零した。ほんのり、緊張が解ける。睫毛を震わせ静かに瞼を落として、緑間は己の内に籠もった熱を解放するようにほうと息を吐いた。
「オレも……お前が好きだ、高尾」
「……っ! 嬉しい!」
高尾がこつんと額を合わせてきて、ぐりぐりと親愛の意を表される。互いの肌から伝わる熱が、泣きたくなるほど心地いい。
どんな顔をしたらいいのかわからなくて、緑間が困り気味に眉を下げてされるがままになっていると、やがて高尾がふにふにと頬を指で弄ってきた。
「真ちゃん、真っ赤。すっげー可愛い」
「うっ、煩い。お前こそ、人のこと言えないのだよ」
「へへっ。だって真ちゃんが同じ気持ちでいてくれたなんて、思ってなかったんだもん」
「……オレもなのだよ」
耳まで肌を朱に染めつつも、正面から向き合って、じわりと胸を暖かくする感情に任せて、緑間は小さくはにかむ。それを受けて、高尾も照れくさそうに破顔した。こういうのを愛しいというのだろうか。ふわふわと心が高揚している。
暫く額越しに互いの体温を感じあって、想いが通じ合った喜びに浸っていると、高尾がそっと面を上げた。
「!」
高尾は僅かに背伸びをして、緑間の花緑青の髪、額、そしてこめかみに次々とちゅっと唇を触れさせてくる。驚いて反射的にきゅっと目を瞑ってしまったが、キスが止みそろそろと瞼を上げると、高尾が上目遣いで緑間を窺っていた。
「ねえ、真ちゃん。ちゅーしてもいい?」
「はっ!?」
「いいでしょ? オレ、ずっとお前とキスしたかったんだ」
「ちょ、ちょっと待つのだよ、高尾……っ!?」
一体どこで高尾のスイッチが入ってしまったのか。急な展開についていけない緑間が、慌てて身を後ろへ引く。が、存外しっかりと頬を固定されていて、身動きをすることは叶わなかった。
その間にも高尾はじりじりと緑間の膝を割って、距離を身体ごと詰めてくる。
「お、おい!」
「ああ、ごめん。もう我慢できそうにねーわ。黙って」
「たか……っ!」
目の前に焦ったような、それでいて酷く熱っぽく緑間を求めてくる高尾の真剣な表情があって、どきりとする。その綺麗なオレンジの虹彩に映っているのが自分の姿で、酷く恥ずかしい。唇を寄せてくる高尾に、緑間は流されるまま、再びゆるりと瞳を閉じた。緑間の唇に、高尾の熱い呼気が微かにかかって、のぼせそうになる。
二人の唇が重なるまで、僅か数センチ……。
「にゃーん!」
不意に足元で快活な声が響き、緑間は反射的にばっと双眸を開いた。
「なっ……! 待つのだよ!」
「ぶふっ!」
迫ってくる高尾の唇に手を押し当てて、これ以上の接触を許さない。突如掌に阻まれて、高尾の口が無残にも空気音を漏らした。
視線をやれば、先ほど玄関へと逃走したタカオが、いつの間にやらソファの前にちょこんとしゃがみこんで、二人を興味津々な眼差しで仰いでいた。
「タカオ……」
「ちょっとぉぉお、真ちゃん! そりゃねーよ!!」
いい雰囲気だったのを邪魔され、ぶすくれた高尾の抗議もなんのそのだ。高尾を押しのけて、緑間はソファから立ち上がる。
「だ、黙れ! お前は性急すぎるのだよ!」
「もー、真ちゃんてば、恥ずかしがり屋さんなんだからー」
「死ね!!」
飼い猫に高尾とのキスを見られることが面映くなって、とっさに拒んでしまった。猫とはいえ、タカオは緑間にとってもはや家族も同然である。すぐ傍にいるのに、心穏やかでいられるはずがない。
緑間は、ゆらゆらと尻尾を揺らしていているタカオを抱き上げて、胸に抱え込む。顔が熱い。
キスされそうになった気恥ずかしさを誤魔化すように、緑間が俯いてタカオの頭を撫でていると。
ぺろっ。
タカオがにゃんと鳴いて背伸びをし、緑間の唇をざらりとした舌で舐めた。思わぬタカオの行動に、緑間も驚いて目を瞬かせる。どこかご機嫌なタカオは、アーモンド型の双眸を愛らしく細めた。
「!!」
「あああああーーーー!! こいつ真ちゃんとちゅーしやがったああああ!!」
ばっちりその様子を目撃した高尾が、この世の終わりとでもいわんばかりの悲壮さで頭を抱えて叫んだ。急な絶叫に呑まれて、緑間もタカオもびくりと肩を跳ね上げる。高尾は酷く悔しげな面持ちで、緑間に訴えた。
「ずるいいいいいい!! 猫ばっかりいい思いしててズリぃい!」
「煩いのだよ! お前は子供か!?」
「子供で結構ですぅう! 猫だけにやられてたまっかよ! 真ちゃん、オレともちゅー!!」
「たっ、高尾!? 落ち着くのだよ!?」
鬼気迫る勢いの高尾に、緑間もたじたじになる。がしっと抱きついてきた高尾に押されて、緑間は再度ソファに腰を下ろす羽目になった。緑間の上にのしかかってきた高尾の相好は、切なげに歪んでいて、何だか酷く罪悪感にかられた。
その隙に、タカオは緑間の腕からひょいと抜け出して、緑間の寝室の方へととたとた歩いて行ってしまう。
「たっ、タカオ!?」
一匹だけ難を逃れたタカオを、緑間は恨めしく見送ることしかできなかった。目の前の高尾は、決して解放してくれそうにない。そうこうしているうちに眼鏡を奪われ、緑間の視界に映る景色はぼんやりと霞む。唯一、覗き込んでくる高尾の表情だけをはっきりと捉えた。
「今は猫のタカオじゃなくて、オレを見てよ、真ちゃん!!」
「おい、高尾……っ! ……っ!」
……その後、二人がどうなったかは、一度背後を振り返ったタカオだけが知っている。