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高緑で似非現代ファンタジーパロ

02 24 *2014 | text

キセキのみなさんが退魔師な、高緑さんで似非現代ファンタジーです。私の厨二が爆発しました。似非でいいから現代ファンタジーを書きたい!という欲望だけで突っ走って書いたお話です。酷い話を書いてしまった自覚はあるので、本当にすみませんでした!!
タイトルすら付かないレベルで自分が書きたいところだけ書いた割に、プロットがザルすぎて必死に補っていたらとんでもない分量になってしまって笑うしかないのですが、そういう意味では中途半端なところで終わっています。
厨二乙と笑いながら読んでください。


※注意
・現代ファンタジー的に、キセキが退魔師というトンデモ設定です。
・奈須、川上リスペクトです。
・設定はふんわり気味なのと、色々あれこれがまぜこぜになっていたり、説明が足りずわかりづらかったり、誤っていたりすることもあるかと思いますが、ファンタジーということでご容赦ください。
・数字的なあれこれは適当です!
・もしかしたら火黒、青桃と思わせてしまうような表現がありますので苦手な方はご注意くださいませ


以上よろしければどうぞ。


続き


 ――遠い。
 彼方の街並みを見下ろせば、色とりどりのネオンが闇夜の中に鮮やかな華をちらちらと咲かせている。箱の中に小さな宝石を沢山詰め込んだかのよう。何せ肉眼でかろうじて視認できるのが、光くらいなのだ。
 地上よりも、空を近くに感じる。これが神の視点か、などと随分大仰なことを考えてしまうほど、遙か高みから眺める世界は、ただただ遠かった。
 ごうっと強く風の音が響く。上空およそ200メートル超、地上50階。繁華街に隣接する都内でもそうそう数のない超高層ビルの屋上からは、見渡す限り視界を遮る建物は殆どない。屋上の四方はかろうじて柵で囲まれていたが、1メートル程度の最低限なものだ。大体、ここは一般人がおいそれと入っていい場所ではない。
「つーか、寒ぃ!」
 ぎゃあと大声を上げて、夜陰にまぎれた人影が一つ、両腕をさすりながらガタガタと身を震わせている。唇から漏れる白い吐息が、虚空に上っては掻き消えていく。
 すぐそこに、春の訪れを感じる季節。けれどもまだ朝晩は気温が低く、冷え込んでいた。
「……全く。こんな時だというのに、お前は煩いのだよ」
 ぱちん。携帯電話を閉じる音と、はぁというため息と共に呆れ声が風に流れた。
 そんな立入禁止区画とされている屋上で、緊張感もなく佇んで話す二人――緑間と高尾は、直線距離にしてゆうに1キロは先にある高層マンションへと視線を向けながら会話を続けた。
「んで? こんなところまで来てどうするつもりなの、真ちゃん」
「飛び降りる」
「……は?」
「だから、そこから飛び降りるのだよ」
「……マジで?」
「マジなのだよ」
 緑間が示した先は、柵を越えた先の中空。口元を引き攣らせ顔色を青くした高尾に、緑間は揶揄するようににやりと笑った。
「お前は絶叫系が好きじゃなかったか?」
「安全装置のないフリーフォールなんて、体験したくねーっつの!」
 うえーと眉を顰める高尾をよそに、緑間は手にしていた長物を、袋から抜き取った。取り出したのは弓だ。緑間は弓の末弭で、高尾の脇腹をぐりぐりとえぐる。
「時間がない。つべこべいうんじゃねーのだよ」
「へいへい。真ちゃんのためなら、たとえ火の中水の中、どこまでもお供いたしますよー」
「最初から腹を括れ、高尾」
 しゅるしゅると、緑間は左手の薬指を包んでいたテーピングを丁寧に剥いた。
 解放された白い薬指の付け根の少し上の部位には、淡く光るリングのような刻印が刻まれている。差し出された緑間の左手を取ると、高尾はうっとりと慈しむように瞳を細めて、唇を緩めた。
「真ちゃんの加護を、オレにも分けてくださいな」
 緑間の刻印に、恭しく唇を落とす。伝わってくるのは、緑間の低めの体温。そして薬指から自分の全身へと広がっていく仄かな緑の燐光。その輝きは、高尾を柔らかく包んだかと思うと、高尾の身体にあっという間に吸い込まれて消えた。
 ちゅっと小さくリップ音を立てて、高尾は緑間から唇を離した。それと同時に、二人の周囲をうねっていた風がぴたりと凪いだ。
「共有の状態は?」
「良好。いつでも行けんぜ」
「上等なのだよ」
 サムズアップで返す高尾に、満足げに緑間も口角を上げる。
「ここから37階付近まで移動と同時に、該当の建物にてターゲットに照準を固定。横から、こいつで一気に貫く」
 緑間の提示した内容に、ひゅうと高尾は小さく口笛を鳴らした。
「無茶振りヒデーの!」
「できないとは言わせん」
「ったりめーだ、やってやんよ。まさしくスピード勝負ってわけだな。これって黒子の提案だろ?」
「ああ。全く、力技が過ぎるのだよ、手っ取り早くていいがな」
 屋上から下を覗けば、地表など一切見えず、眩暈がしそうなほどの高さ。ごくり、と唾を飲み込む。下から流れてくる風が、高尾の前髪を押し上げていく。自然と肌が震え、臓腑が冷たく縮むようだ。ひゅっと喉が鳴る。無理もない。
「行くぞ、高尾」
 けれども緑間は、がん、と躊躇いもなく柵に足を掛ける。その表情には、迷いも、微塵の恐怖すらも浮かんでいない。翡翠の双眸にあるのは、確固たる意志。そして高尾へと寄せてくれる真っ直ぐな信頼。
 こんな眼差しを投げられて、怖気づいてなんていられるものか。こみ上げてくる恐怖心を押さえつけ、高尾は虚勢を張って笑った。
「仰せのままに!」
 ひらりと上着の裾がはためく。
 二人は闇夜の空へと身を躍らせた。



* * *



 物心付いた頃から、視えてはいけないものが視えた。



 今でこそ制御ができている鷹の目も、幼少期に意味もわからず世界を俯瞰するには、少しばかり荷が重すぎた。
 普通の人間が得る以上に膨大な情報が、双眸を通して大挙してくるのだ。まだ精神も肉体も未熟な子供が受け止めるには、脳の処理が追いつかないのも無理はない。
 制御も取捨選択もままならず、ただただ垂れ流される情報の奔流に翻弄されて、高尾は吐き気と頭痛と熱に苛まれる日々を送っていた。
 また、子供というのは多感な時期も、精神が無垢で不安定なこともあり、えてして霊的なものを視る能力に長けている。殊更、高尾の目は特別製だったためか、捉える情報の一つとして、所謂『良くないもの』までをもはっきりと映してしまった。
 様々な場所で、高尾は黒い靄の塊みたいな存在を視認していた。それがどういったものなのかまでは、幼い高尾にはわからなかった。一般的に取りざたされる幽霊や、ホラー映画のグロい映像のようなものとは、またどこか違っていたからだ。それでも、あれは触れてはならない存在なのだと、子供心にうっすらと察してはいた。
 警戒心のおかげで、魅入られたり取り憑かれたりすることはなかった。だからといって、視界に捉えてしまった良くないものの影響を受けないわけではない。ただでさえ鷹の目の性能を御しきれず、床に伏すことが多かったというのに、時折それらに当てられて、益々高尾は体調を崩し寝込むことになった。
 機転が訪れたのは、原因不明の死線を高尾がくぐろうとしていた時だ。
 高尾を案じた祖母が、どこかの神社から貰ってきたお守り。掌にぴったりと納まる程の小さなそれは、高尾の目から見ても酷く清浄なものに映った。お守りから視える、ほんのりと暖かな光。指が光に触れた瞬間、高尾の内をじりじりと蝕んでいた悪いものが、ゆっくりと浄化されていくようだった。守られている、そんな安堵感すら覚える程、お守りが高尾を救ってくれたのだ。
 それ以来ピタリと、まではいかないものの、黒い靄から受ける影響は格段に減った。依然、鷹の目による情報のオーバーフローは続いていたものの、高尾が伏せる回数も徐々に少なくなった。
 成長するにつれ、高尾自身も目の統制を行うことができるようになった。視てはいけないものを視ないようにする処世術も学んだ。何せ経験だけは腐るほどにある。
 上手に己の目と向き合うことで、漸く高尾はまっとうな生活を手に入れることができた。


 そんな特別な目を持っていたからだろう。


 高校で初めて緑間真太郎と邂逅した時に、何て綺麗なのだろうと息を飲んでしまったのは。


* * *


 緑間は面白い、と高尾は思う。
 特徴的な口癖。人事を尽くすため、徹底的に守られるジンクス。体裁を気にせず、自分の信念を貫くマイペースさ。物怖じせず、きつい言葉を吐くくせに、意外にお人よしなツンデレの性格。天才の一角なのに努力を怠らず、とんでもなく負けず嫌いなところ。どれをとっても、高尾の周囲にはいなかった類の人間だ。
 そして何より、緑間は綺麗だった。
 綺麗という表現は、彼が放つ芸術的な長距離3Pシュートだけのことではない。男にしては長い睫毛を携えた、端整な顔立ちのことでもない。
 彼が纏う空気のことだ。
 緑間の周囲は、有り体に言えば清浄だった。高尾をずっと悪いものから遠ざけてきてくれたお守りが、そのまま人として顕現したかのように、何故か彼は不浄の存在を寄せ付けないのだ。
 秀徳高校の校舎は歴史があり、趣があるといえば聞こえはいいが、単に年季が入って古い。古い場所は、人の念が溜まり易い。特に多感な時期の生徒が通う学校は、良くも悪くも多種多様の想いが錯綜する巣窟だ。どこの学校でも、所謂七不思議の一つくらい出てくるだろう。そういった良くないものを安易に生み出しているのは、人間の感情という名の呪いだ。案の定、校舎のそこかしこに黒い靄が視えて、高尾はうんざりとしていた。
 だが緑間がそこにいるだけで、さして強くもない黒い靄は、結界にでも触れたかのようにぱちんと霧散してしまう。最初に緑間が体育館に巣食うそれらを、難なく浄化するのを視た時、高尾は思わずあんぐりと口を開けてしまった。
 彼の高潔な精神のためだろうか、はたまた折れない不屈の意志だろうか。まさかおは朝のせいではあるまい。理由まではわからない。常々ストイックで、簡単に人を寄せ付けない雰囲気を纏っているとは思っていたが、まさかそういったものすらも近づけないとは恐れ入る。つい高尾は腹を抱えて笑ってしまい、緑間に胡乱な目を向けられたが、一向に構わなかった。
 その瞬間、高尾には緑間が救世主のように感じられたからだ。こんなに空気が心地よいのだと、世界が美しいのだと感じたのは、生まれて初めてかもしれなかった。
 そのせいもあって、いっそう緑間の傍は居心地が良かった。鷹の目を最大限に有効に活用できる相棒として、また良くないものからひっそりと遠ざけてくれる面白い友人として、高尾は緑間と一緒にいることが楽しくてたまらなかった。
 高尾の高校生活は、緑間のおかげで順風満帆だったといえよう。
 暫くして、おかしな行動をしていても、緑間だしの一言で済んでしまう程度には、緑間の奇行に秀徳高校全体が染まってきた頃。高尾の緑間に対する印象が、『面白い』に次いで『不思議』が加わった事件があった。
 元々緑間は偏屈を拗らせていて、彼を良く知らぬ人からすれば不思議を地で行く人間だったが、緑間の理解者だと自負する高尾ですら『不思議』だと思う出来事だったのだ。
 秀徳高校バスケ部の朝は早い。
 強豪バスケ部としての矜持もあるだろうが、チーム全体が真摯にバスケに向かっているため、強制参加でないにも関わらず、ほとんどの部員が参加し練習に励んでいる。単にバスケ馬鹿の集まりとも言う。
 高尾と緑間も例に漏れず、チャリアカーをガラガラと疾走させて、毎日朝練へと臨んでいる。緑間のラッキーアイテムが重くなければ余裕で朝練の時間に辿り着けるのだが、重量のあるものだとタイムトライアルの様相を呈してくる。
 その日は幸いにも軽いラッキーアイテムだったため、余裕を持って部室で着替え体育館へと辿り着き、高尾は揚々と重い鉄扉を開いた。
「おはよーございまーっす!」
 けれども何も変わらないはずの朝は、体育館の不穏な雰囲気によって一変した。
(うお……)
 高尾が体育館に入らず急に立ち止まったため、緑間が高尾の背にぶつかる。「何なのだよ」と頭上で舌打ちが聞こえたが、館内のただならぬ様子に、緑間も眉を顰めた。
 コートの中央では、二人の先輩部員が言い争いをしていた。甲高い声を上げて、周囲の制止も聞かず、ぎゃんぎゃんと喚いている。他の部員たちも、突如始まった諍いをどう収めたものか困惑気味だ。そのためか、体育館全体の空気が重苦しい。
 誰か止められる者はいないのかと周囲を見回してみるが、生憎と大坪、木村はまだ姿を現していない。宮地はさっき部室にいたから、来るにはもう少しかかるだろう。
 端からすれば、よくある喧嘩の一幕に過ぎないのかもしれない。けれども高尾の目は、二人の部員を基点として取り巻く黒い靄を映していた。あれは良くない。
 あの靄に取り憑かれると、人がひっそりと胸のうちに抱える負の感情を、自分の意思に関係なく煽られる。些細なことにイライラし始め、気分は不安定に落ち込み気力を奪われ、やがて精神は磨耗し身体が衰弱していく。高尾もかつて、余波を食らっていたからわかる。
 だが理解していたところで、高尾にはどうすることもできなかった。高尾にはただ視えるだけなのだ。払うほどの力はない。
 しかしこのままでは、無関係の周囲にまで悪影響が伝播してしまう。高尾が一人歯がゆさを覚えていると、背中を叩かれた。はっとなって顔を上げてみれば、緑間がいつもと変わらぬ仏頂面で高尾を見下ろしていた。
「そろそろ練習が始まるのだよ。さっさと準備しろ、高尾」
 こんな時でも緑間は自分のペースを崩さない。高尾を追い抜かして、緑間はさっさと体育館のステージに己の荷物を置いている。慌てて高尾も彼に続いた。
「……だってさあ、真ちゃん気になんねぇの? あれ……」
「煩いな」
 視線で渦中の状況を促せば、緑間はやれやれとため息を付いて眼鏡のブリッジを押し上げ一蹴する。
「だがこのままでは、練習に支障が出るのだよ。仕方ない……」
 そう言うと、緑間は傍らに立てかけておいた本日のラッキーアイテム――和弓だ――を手にした。一体そんなもので何をするつもりなのだろう。予測できない緑間の行動を、高尾は逐一見守った。
 美麗な刺繍の入った袋から仰々しく取り出された弓は、すらりと湾曲している。弓など生で眺めるのは初めてだったので、高尾はほわと吐息を漏らした。
 195センチもある緑間を凌駕する長さのそれは、てらりとした光沢をたたえている。高尾にはとんと弓などわからないのだが、緑間が持っていると高そうに見えるなあという場違いな感想を抱いた。
 緑間はステージから充分に距離を置き、渦中の二人を定め両足を軽く開く。そのまま正面にて取懸けて構えると、矢を番えないまま、両腕を頭上へと持ち上げた。打ち起こしてから慎重に両拳を左右に開き、弦だけを引き分ける。きりり、と弓がしなった。
 姿勢が良いせいもあってか、緑間の姿は酷く様になっていた。弓道を嗜んでいたなど聞いたこともなかったが、構えが随分と堂に入っている。
 高尾も詳しくないのだが、弦を引く際にはゆがけという防具をはめて、指を保護するのではなかったか。緑間が弦を引いているのは、利き手と反対の右手ではあったが、万が一にも怪我でもされたらことだ。ハラハラしている高尾とは裏腹に、緑間は全く意に介した様子もない。
 突然緑間が弓を引き始めたことで、部員の一部がなんだなんだと好奇の視線を向けてくる。いくら彼の奇抜な行動に慣れ切っている者たちとはいえ、これは緑間の中でもトップクラスに入る奇行だ。
 弦を引いていた緑間が、指をぱっと離した。びいぃぃいんと、弦が反動で独特の音を響かせる。ぶわっと緑間の周囲を風が取り巻き、弓弦の立てる反響が収まった瞬間には、すべてが終わっていた。
 ほんの数秒にも満たない出来事。だが高尾には視えてしまった。
 緑間を中心とした、同心円状に広がる漣のような波動。その軌道上にいた黒い靄を、跡形もなく一斉にかき消してしまったのを。勿論、部員たちに纏わり付いていた黒い靄も、消滅してしまった。
(え、何今の……)
 部員たちからすれば、単に緑間が弓を引いて音を鳴らしたとしか映らなかっただろう。けれども確実に緑間の行動を皮切りに、口論していた二人は正気を取り戻し目を瞬かせていた。どうしてこんな醜態を晒していたのか、わからないとばかりに首を捻っている。
 不可思議な現象にざわつく体育館内に、着替え終わった宮地が足を踏み入れた。
「はよーっす……ってどうした? また緑間が何かやらかしたのか!?」
「失礼なのだよ、宮地先輩」
 一拍置いて、残心から弓を倒して構えを解く。ほうと一息付いて、呼吸を整えた緑間は、宮地に向けて一言発すると、何事もなかったかのようにてきぱきと弓を片付け始めた。
 ただただぽかんとする部員を尻目に、緑間は変わらずマイペースを貫いている。弓袋に収納を終え、元の場所に立てかけ直した。
「つーか、高尾。マジ何なのこの空気」
「いや、オレも良くわかんないんすけど……。真ちゃんが、喧嘩してた部員を諌めた……んすかね?」
「はぁ!? だって今あいつ弓持ってなかったか!?」
「持ってましたねえ……」
 眉を顰めた宮地が、困惑するのも無理はない。だが、高尾も嘘をついているわけではないのだ。
 方々がわけがわからず首を傾げる中、緑間だけが涼しい顔をしている。
 最終的に依然どよめきに溢れる体育館内を収拾させたのは、練習開始時間直前に到着した大坪と木村だった。
「……ん? ざわついているようだが一体どうした?」
「はよーっす。何かあったのか?」
「ほら、もうすぐ時間だ。朝練を始めるぞ」
 大坪はパンと手を叩いて、戸惑っている部員たちを取りまとめ始めた。さすが主将の貫禄。わだかまりの残る表情の部員たちも、徐々に大坪の指示に従っていく。
 緑間も一つ頷いて、ウォーミングアップのための軽い館内ランニングを始めようとしている。どうにも釈然とせず立ち尽くしたままの高尾の肩を叩いて促すと、緑間はフンと鼻を鳴らした。
「今日の蟹座の順位は1位。ラッキーアイテムは弓。トラブルはラッキーアイテムで打ち抜いてしまいましょう」
 緑間は、今朝放送されたおは朝占いの内容を諳んじた。
「さすがはおは朝なのだよ」
 至極機嫌がいいのだろう。微かに口角を吊り上げて、緑間は眼鏡の奥の瞳を細めた。


* * *


 もしかして、緑間真太郎にはあの黒い靄が視えているのではないだろうか。
 高尾が疑問を抱くのも無理はない。それだけ緑間の払う力が、高尾からするとピンポイント過ぎるのである。
 和弓事件後、よくよく緑間を観察してみたけれど、黒い靄を気にするそぶりもなく学校生活を送っている。さりとて、無意識にせよ緑間は過ごしやすい程度に校舎内を浄化していくのだ。入学当初は辟易していた黒い靄も、今はそこそこに減っていた。
 しかしながら、結局のところ緑間から不審な行動は窺えなかった。
 そうこうしている内にウィンターカップ予選が始まる頃には、高尾もすっかり頭の片隅に追いやってしまい、やはり緑間には視えていないのだろうという結論を下した。
 ウィンターカップは惜しくも3位と優勝を手にすることはできず、涙を飲んだ。世話になった先輩を送り出し、心機一転、新たなチームで雪辱を果たそうと一丸となって調整を始めている。
 高尾と緑間は相変わらず最後まで残り、習慣の自主練習を続けていた。ラストを共にしていた宮地がいなくなり、寂寥感は募る。だが、新スタメンの先輩たちも二人につられて徐々に居残りをするようになってきた。――新しいチームも悪くはないのだよ。緑間がそんな風にツンデレるくらいには、新生秀徳の仕上がりは上々になってきている。
 いつもと変わらない学生生活。ほんの少しだけ変わった部活。でもいつもと変わらない毎日。
 ――そんなありふれた日々の1月下旬のことだった。
 明日の弁当に使う卵が切れていたと、深夜にも関わらず母親の命でお使いに出された高尾は、フンフンと小さく鼻歌を歌いながら夜道を歩いていた。
 卵くらい近所のコンビニにおいてあるだろうと高を括っていたのだが、残念ながら商品は見当たらず、寒さに身を縮めながら、24時間営業のスーパーまで足を伸ばしたのだ。
 それもこれも、全部緑間のためである。
 高尾家の卵焼きは甘い。緑間はそれをいたくお気に召していた。毎日高尾の弁当箱に入っている卵焼きを、一切れ緑間に上げる。すると、緑間はほんのりと嬉しそうに口元を緩ませるのだ。
 高尾は、その緑間の微笑を見るのが好きだった。普段仏頂面の緑間が、頻繁に覗かせてくれるようになった笑顔。気を許してくれたようで、高尾も何だか幸せな気持ちになるのだ。
(真ちゃん、喜んでくれっかなー)
 今頃既に就寝しているだろう相棒のことを思い浮かべて、高尾は浮き足立つ心のままに天を仰いだ。はあと吐いた息が白く凍え、虚空へと立ち上る。
 今夜は新月。月の浮かばぬ夜空は、周囲を色濃く闇に染めている。等間隔に設置された街灯だけが、唯一の光としてぼんやりと浮いていた。
「ん……?」
 自宅まであと僅かというところで、ふと違和感を高尾は覚えた。視線を険しくしきょろきょろと辺りを窺うも、誰もいないし、何も察知することはできない。
 けれども、高尾はこの妙な感覚をよく知っていた。あの黒い靄を視界に入れた時に、小さく肌が粟立つような感覚を。
 ややあって、ドンという決して小さくない音が聞こえた。高尾は思わず身を硬くする。
 夜中に響くには結構な音だったというのに、辺りの住宅からは何故か様子を伺いにくる気配はない。何事もなかったかのように静まり返ったままだ。――おかしくはないだろうか。
 念のため、鷹の目を使って周辺を警戒する。ぐんと広がった視野に、引っかかる怪しい形跡はない。ついでとばかりに意識を傍の公園にまで向けて、高尾は思わず瞠目した。
 そこに、馴染み深い色を見つけてしまったからだ。
(……緑間?)
 とくん、と鼓動が跳ねる。
 高尾が絶対に見間違えるはずのない緑色が、外灯の淡い明かりに照らされた薄暗い公園に何故かあった。しかも彼一人だけではない。
(何やってんだ……?)
 高尾は近くの電柱の影に、そっと身を寄せた。
 公園の中央に佇んでぼそぼそと話し合っているのは、緑間を筆頭に、黒子、火神、青峰、桃井の5人だった。話の中身までは遠すぎて聞こえない。けれども酷く深刻そうな顔で、互いに言葉を交わしている様子は窺い知れた。
 あと1時間もしないうちに日付を跨いでしまう時間帯。そんな夜中に、こんなところに集まって一体何をしているというのか。
 大体、規則正しく22時には就寝してしまい朝まで連絡がとれなくなる緑間が未だ起きていて、あまつさえ外をふらふらしているということが異常だ。桃井に至っては女の子である。いくら屈強な男たちが一緒だからといって、出歩いていい頃合ではない。
 そもそも面子の取り合わせがおかしい。高尾は首を傾げた。先日のウィンターカップで、キセキと黒子たちが抱えていた色々な蟠りは解けたとは聞いていたけれども、こんな風に顔を付き合わせて、深夜に密談をするような仲だっただろうか。高尾が知る限り、緑間と火神などは顔を合わせれば喧嘩ばかりしている犬猿の仲のはずだ。
 更に、緑間はその手に弓を持っていた。以前、場を諌めた時のラッキーアイテムだった、弓道部が使う大きな弓だ。今日の蟹座のラッキーアイテムは野球の硬式ボールだから、どうして彼がそんなものを持ち歩いているのか、高尾にはさっぱりわからなかった。
 例えば今が深夜でなかったら。場所がストリートバスケのコートだったら。緑間の手にあるのが、今日のラッキーアイテムもしくはバスケットボールだったら。多少物珍しい取り合わせだったとしても、高尾もおかしいなどとは思わなかっただろう。
 何もかもが、どことなく腑に落ちない。
 そんな高尾の当惑など知らず、5人は顔を見合わせて一つ頷くと、高尾がいる方向とは逆の入り口へ、バラバラと駆け出して行ってしまった。
(どういうことだよ……!?)
 残された高尾は息を呑み、その場に立ち尽くして、遠ざかっていく彼らの背を凝視し続けた。吹き寄せる冷たい風が、高尾の身体から体温を奪っていく。
 高尾の視線を釘付けにしたのは、最後に公園を出て行った青峰。彼が酷く忌々しげな表情で、明確な意思を持って足を上げ踏み潰し消滅させたのは、あの黒い靄だった。
 先ほどから高尾が感じていたぴりぴりとした違和感は、いつの間にか治まっていた。



* * *



 ぱさ、とゴールリングに触れることなく、ボールはネットを綺麗にくぐった。今日も緑間真太郎は、変わらず絶好調だ。昨晩外になんて出歩いていませんとばかりに何の衒いもない顔で、欠伸の一つも漏らさず、ただ淡々と己の人事を尽くしている。
 寧ろ睡眠不足なのは高尾の方だった。自分の見たことが頭を離れなくて、どうにも上手に眠ることが出来なかった。今朝、チャリアカーで迎えに行った際、盛大に欠伸をかみ殺している高尾に、緑間が深々と嘆息したのは解せない。一体誰のせいだ誰のと、高尾は内心毒づいた。
 高尾は反対のゴールを利用して、ドリブルの練習をしながら、ちらりちらりと緑間の様子を窺う。
 結局、昨晩のことは自主練習の今になっても、尋ねることができていなかった。
「昨日の夜、黒子たちと公園で何してたの?」
 たったそれだけの言葉。しかし、おいそれと簡単に切り出すことはできない話だ。
 高尾が腹を括るタイミングを計りかねていたのもあるし、今回ばかりは緑間と二人きりになってから挙げたほうがいい話題だからというのもある。まあ、自然に任せてと完全に二人きりになれたのが、よもや自主練習の終わり間際になるとは思いも寄らなかったのだけれど。意外に人目をはばかるのは難しい。
 ばん、と美しい放物線を描いたボールがネットを貫き、体育館の床をバウンドする。緑間が、本日のノルマである100本目を決めた音が響いた。
 あわせて高尾も、ドライブからのレイアップを決め、流れる汗をTシャツの袖で無造作に拭う。緑間は、ゴール下に散らばっているボールをさくさくと籠に片付け始めている。一つだけ遠くまで転がっていってしまったボールを緑間が取りに行っている間に、高尾は自分が使っていたボールを籠に収めた。
「高尾」
 ひゅっと緑間から鋭いパスが通る。高尾は難なく受け止めると、そのまま人差し指の上でボールを回した。
 漸く、タイミングが訪れた。高尾は気づかれないようにこっそり深呼吸をする。話をするだけだ。別に緊張するようなことでもないはずなのに、いやに鼓動が早まっていた。
 戻ってきた緑間が、籠にかけてあったタオルを手に、汗を拭きながらいぶかしげな視線を投げた。
「さっきからそわそわと、一体何なのだよ、高尾」
「……あっは、わかっちゃった?」
「ずっと視線が煩かったのだよ」
 フンと鼻を鳴らして、緑間は眼鏡のブリッジを押し上げる。話せ、といわんばかりに顎をあげる。普段鈍いくせに、こういうところがかなわないなと、高尾は大げさに肩を竦めた。ぱしり、と指上で回していたボールを両手で持ち直す。緑間に促されたこともあり、高尾も一つ息を付いてから、緑間を仰いだ。思わぬ高尾の真剣な顔に、緑間は柳眉をぴくりと上げる。
「真ちゃんさあ、昨日の夜、黒子たちと公園にいたでしょ?」
 高尾がそう尋ねると、緑間は軽く目を瞠った。それがどういった意味の表情かまでは汲み取れない。
「……人違いではないのか?」
「オレがお前のこと、見間違えるかってーの」
 案の定、緑間は誤魔化してきた。益々疑惑が深まる。高尾が真っ直ぐ緑間の瞳を見つめると、ぐっと言葉に詰まった。
「あんな時間に、あんなところで一体何していたんだよ?」
「……お前こそ、そんな時間に何をしていたのだよ」
 歯切れが悪い。それに質問に質問で返すとは、緑間らしくない。明らかに応えたくない意思が窺える。
「オレはカーチャンに頼まれて、切れてた卵を買出しにいってただけだよ。今日真ちゃんが旨そうに食べてた卵焼きのため!」
「む」
 緑間はバツが悪そうに眉を顰めた。まさかエンカウントの原因が、自分のためだとは思ってもいなかったのだろう。
「なあ、オレには言えないこと?」
 黒子たちとは共有できるくせに。口には上らせなかったが、内心込み上げてきた想いにちりりと胸が小さく痛んだ。
「……お前には関係のないことなのだよ、高尾。下らんことを言っていないで、とっとと片付けて帰るぞ」
 躊躇いの末、切り捨てることを選んだのか、緑間は眼鏡のブリッジを押し上げさっさと話を終了させようとしてくる。しかしそうは問屋がおろさない。
「関係なくはねーんだな、これが」
 緑間がそのつもりならばと、高尾は手持ちのカードを遠慮なく切った。普段ならば、世迷言とあしらわれるのが恐くて、家族以外誰にも告げることができなかったカードを。
「オレの目ってさ、特別製なんだよね」
「……何を今更。鷹の目のことだろう?」
 緑間が、慎重に言葉を選んでいるのがわかった。ぺろり、と高尾は乾いた己の唇を舐める。
「ああ。オレの鷹の目は、視野を広げて、俯瞰して世界を視ることができる。ただし、それにはちょっとばかし弊害があんのよ」
 緑間の表情は、仏頂面のまま変わらない。にやり、と高尾は口角をつりあげた。
「黒い靄が視えるんだわ」
 緑間と視線を交わす。すうっと、緑間の表情から感情が消えうせた。ビンゴ。わかりやすくてありがたい。さあ、緑間はどう出る?
「なあ、真ちゃん。もう一度聞くぜ。オレには言えないこと?」
 高尾が再び問うが、緑間は唇を真一文字に結び黙している。暫く逡巡しているようにも映ったのは、瞳の奥にある微かな揺らぎを高尾が見逃さなかったからか。
 視線を絡ませたまま、二人の間に沈黙が降りる。目を逸らしたら終わると、高尾は強い意思を持って緑間を真っ直ぐ貫いた。
 やがて、先に根を上げたのは緑間の方だった。
「     」
 肩を落とし、小さく、小さく、ため息と共に緑間の唇が僅かに動く。言葉にならない言葉。しかし幸か不幸か、鷹の目はそれを読み取ってしまった。
『しかたない』
 たった五文字の単語は、何故だか最後通牒のように知覚させられた。
「高尾」
 名を、呼ばれた。ただそれだけなのに、ぞわり、と総毛立ってしまうほどの圧迫感があった。緑間を取り巻いていた空気が急変する。背筋を冷たいものが伝った。
 何気なく緑間が左手を、高尾の額へと伸ばしてくる。高尾は、その掌に集ってくる得体の知れない、流れのようなものを認識した。それが何なのかまではわからない。緑間の掌はどうしてだか微かに光を湛えていて、害をなす雰囲気にはとても思えなかった。それでも、高尾にとって今は都合の良くないものだという確信だけはあった。
 高尾は緑間から逃れるように、反射的に後ろへ飛びずさっていた。よくとっさに身体が動いたものだと自画自賛する。
 緑間の瞳が、驚きに見開かれる。彼の掌は、ぶわりと広がった圧を纏ったまま、何もない空間を空ぶった。
 高尾の手から離れたバスケットボールだけが、転々とバウンドする音を響かせた。
 どくどくどく。心臓の早い鼓動が、やけに耳の近くで喧しい程に高鳴っている。いつの間にか、口内はカラカラになっていた。
「……なに、今の」
 緑間から距離をおいて、恐る恐る彼の翡翠の双眸へと顔を向けた。場の雰囲気を変えようと、高尾は笑おうとした。しかし上手に笑えず、口元が引き攣る。
 左手をさすりながら、緑間はまるで能面のように表情を無くしている。ただでさえ硬質な印象を与える容貌は、いっそう怜悧に映った。
 一体、目の前で何が起きているのだろう。あまりに現実感に乏しい緑間の変貌に、高尾は混乱に傾きそうな思考回路を叱咤した。落ち着け。一手間違えたら、何かがお終いになる。これはそういう類ものだと、高尾は全身で感じていた。
「今、何をしようとした、緑間……っ!?」
 とにかく張り詰めた雰囲気に呑まれまいと、虚勢を張った高尾が叫ぶ。気負う高尾とは裏腹に、あくまでも冷静な態度で緑間はゆるりと首を振った。
「……これまで視えるのか、お前は」
「これまで……って、どういうことだよ」
「……」
 緑間は口を噤んだまま、上から下まで視線を動かし、じっと高尾を検分する。
 負けまいという気持ちだけは充分にあるが、正直なところ高尾はその場から動けなかった。これでは蛇に睨まれた蛙だと、高尾は現状を嘲う。
 しかし高尾を見据える緑間の瞳は、やはりどこか迷いや憂いが生じているようにも映った。そこが突破口なのかもしれない。
 ごくり、と高尾は唾液を嚥下する。
「……お前はアレが何なのか、知ってんだな?」
 以前、緑間には視えていないと結論付けた黒い靄。だが今までの言動を照らし合わせてみれば、緑間が黒い靄の存在を認知しているのはもはや明らかだった。しかも先ほど高尾にしてみせた緑間の行為と、何らかの関係があると断じていい。
 やっと手にした糸口。これをみすみす手放す高尾ではない。
 緑間は静かに瞼を落とし、小さく俯いた。眉間に寄った皺は、普段みたいに不快からではなく、苦悩だ。
「……知らない方が幸せだということが、世の中にはあるのだよ」
 突き放すように、ぽつりと落とされた言葉。けれども高尾の翻訳を通せば、緑間の言葉は『今ならまだ知らなかったことにできる』だ。身を引けと、緑間は促していた。
「それを決めるのは、お前じゃねぇだろ」
「フン。知らないから言えることなのだよ。知ってから後悔しても遅い」
「だけど、オレはもう入り口を視ちまってるんだ。知らないくらいなら、知って後悔したほうがマシだっつーの!」
「そんな単純な話ではないのだよ」
「でもお前は知ってるんだろ!?」
 互いに一歩も引かない。話は平行線だ。
「……聞き分けろ、高尾」
 『頼むから』。緑間の言外に発された言葉を、確かに受け取る。
 ああ、やっぱり。高尾はやっと合点がいった。先ほどから、緑間の言動と瞳に映る感情の矛盾が、ずっと気になっていたのだ。
 素直じゃない彼の言葉から姿を現したのは、純粋に高尾を案じる、声にならない声。
「……真ちゃんは、オレを巻き込みたくないんだな?」
「……っ!」
 びくり、と緑間の体が震える。応えはそれで十分だった。
 高尾は全身の警戒を呆気なく解いた。緑間が信じられないといった面持ちで、高尾を見据える。だから高尾は、へらりといつもの緩い笑顔を緑間に向けた。
「ならもっと、問答無用で非情になるべきだったぜ、真ちゃん。悪ィな。オレは自分の周りで何が起きているのか、ちゃんと話を聞きたい。それがどんな内容でも、オレはオレの意思で判断して見極めてーんだ」
 さっきまでの緊張感は一体どこに行ってしまったのかというくらい呑気に告げる高尾に、緑間の拳がぶるぶると震える。ぐわっと眉間の皺はいっそう深く刻まれ、瞳は険しく吊り上っている。無表情で機械的な態度を取る緑間より、怒りを露わにしている緑間のほうが、よっぽどらしくていい。
「お前は馬鹿か!? わざわざ首を突っ込むことではないと、ちゃんとわかっているのだろう!?」
「そりゃそうだけどさー。でもオレが小さな頃からずっと視えてた『良くないもの』に対する疑問に答えてくれる奴が、やっと現れたんだぜ?」
「……知ったら、戻れなくなるとしてもか」
「ああ」
 緑間の脅しを、高尾はうっすらとした笑みと共にいなし、神妙に頷く。態度はフランクでも、高尾の瞳が本気だということは嫌でも緑間には伝わっているだろう。
「お願いだ、真ちゃん。オレはアレが何なのか、知りたい」
 ああもう、と緑間はイライラした様子で舌打ちをすると、珍しく荒々しく前髪にぐしゃりと手を入れてかき回した。
「……わかった。全部話そう。そもそもここまでチャンネルが合う人間が、今まで無事でいられたこと自体おかしいのだよ!」
「チャンネルってどういうこと? つーか、さっきの真ちゃんがやった変なのって何!? 真ちゃんと黒い靄って、一体どういう関係なの!!??」
 許可が出たと同時に高尾から繰り出される怒涛の質問攻撃に、緑間はたじろぐ。鼻息荒く距離を縮めてくる高尾の額を掌で押し返して、緑間は疲れたように深々と嘆息した。
「変なのとかいうんじゃねーのだよ。順を追って話すから、しっかり聞け」
「アイサー」
「まず今から言うことは、冗談でも何でもないということを最初に言っておく。いいか、笑うんじゃねーのだよ?」
「そもそも、笑う要素があんの?」
 不思議なことを言い出す緑間に、高尾は首を傾げた。
 緑間は酷く苦々しげに唇を何度か戦慄かせた後、意を決したのか表情を改めた。
「……あの黒い靄のことを、オレ達は『災禍』と呼んでいる」
「災禍……って、災いってことだよな?」
「ああ。まさしくこの世界にとっての災いだからなのだよ。簡単に言うと、奴らはこの世界のエネルギー――端的に言えば生命を食らう」
 まあオカルト的な要素は絡むだろうという予感は薄々していたが、緑間の唇から発せられる言葉は、真実であろうとしても、やはりどこか現実感に乏しい。



「……そしてオレの家は、災禍を祓う退魔師の家系なのだよ」



「……は?」
 目が点になるとはまさしくこのこと。
 それなんて厨二病? と反射的に口に出さなかった自分を、いっそ褒めてやりたかった。



* * *



「……だから話すのは嫌だったのだよ。こういうのは赤司の専売特許だというのに……」
 ぽかんとしている高尾の反応に、緑間は唇をへの字に曲げて、すっかり機嫌を損ねてしまっている。例えに出された赤司が、いっそ哀れだ。
 退魔師。高尾は反芻する。よもや漫画やアニメなどで良く出てくる単語を実際に耳にすることになるとは、人生何があるか本当にわからないものだ。
 しかし呆気にとられこそすれ、高尾は笑うことなどできなかった。何せ、幼い頃からずっと視認しているのだから。黒い靄の存在を。緑間が下らない冗談を言うような性質でないことも、要因の一つだ。
「いやいや、真ちゃん。そこ拗ねるところじゃねーって」
「拗ねてなどいねーのだよ」
 宥める高尾に対して、緑間は米神を押さえている。もう何度目になるのかわからないため息をついてから、気を取り直したように顔を上げた。
「厨二と謗られようと、オレのお役目が終わるわけでもない」
「だから謗ってねーつの! 卑屈すぎんだろ!」
 だが、ごく一般的な高校生がいきなり退魔師だのなんだのというオカルトティックな言葉を真剣に告げなければならない状況というのも、それはそれで辛い。いくら緑間が電波だとしてもだ。何となく緑間に同情して、高尾はぽんと彼の肩を優しく叩いた。
「んで? 真ちゃんちが退魔の家系っていうのはわかった。びっくりしたけど、笑ったりしねーから、話を続けてくれよ」
 珍しく取り乱し気味の緑間は、誤魔化すようにこほんと一つ咳払いをした。
「ああ、すまない、つい……。退魔の家系というのは、大昔に神々との契約を結んだ、ある特殊な家系のことを指している。そしてオレ達が駆逐の対象としているのが、お前の言うところの黒い靄、災禍なのだよ」
「災いって言ってたけどさ、あれって、要するに幽霊とか、悪霊みたいなもんじゃねぇの……?」
「確かに似ているが、非なるものだ。霊と一緒にするなど、とんでもないのだよ」
 イメージとして近いものを上げる高尾に対して、緑間は首を左右に振った。
「ヤツらは霊と異なって、存在するのに糧を必要とする。大まかに生命といったが、もっと厳密に言えばエネルギーだ。そのエネルギーというのが問題でな。大きく分類して、この世のエネルギーは2種類ある。所謂自然、神々の摂理が生み出すエネルギーと、人や動物などの万物がそれぞれ個別に持ちうる生命の生み出すエネルギーの2つだ。前者を神源、後者を命源と呼称している」
 緑間は、なじみのない言葉を、空に人差し指で漢字を書き記した。
「災禍は、神源、命源を食らうのだよ」
 緑間の声はあくまでも淡白ではあったが、高尾はぞっとした。今まで高尾が体験してきた光景が脳裏に蘇る。黒い靄――災禍に憑かれ衰弱していった人の姿を、何度も高尾は視ていた。あれは文字通り命を食らわれていたのか。ぶるり、と怖気が走る。
「その名の通り神源は、ありとあらゆるところに存在し、漂っているものではあるが、本質はほぼ神々そのものに等しい。つまりそれらが奪われるということは、神々が蹂躙されているも同じなのだよ。多少リソースを奪われるくらいなら、影響はさほど大きくはない。神源自体が莫大な存在で、命源の源でもある。基本的に消費され、また生み出されるものだからだ。だが多くの神源が、強制的に一斉に奪われたとしたらどうなると思う?」
 問いかけに、緑間の語る内容を頭の中で整理して、明かされた事実の重さにすっと内臓が冷たくなった。つまり、災禍は人だけでなく神をも殺すということだ。突拍子もない。思わず口元が引き攣って、乾いた笑いが浮かんだ。
「考えたくもねーな……」
「起きるのは、自然災害どころの話じゃねーのだよ」
 緑間も苦虫を噛み潰したかのように顔を曇らせて、肩を竦めた。
「それだけでも災禍が霊と異なるのは自明だと思うが、もっと簡単に言えば、チャンネルが違うと考えるのだよ」
「チャンネルって、さっきも言っていたよな?」
 緑間はこくりと頷いた。
 チャンネルとは、わかりづらい原理を、わかりやすく解説する時に使う比喩だと緑間は述べた。存在の位相とでも言えばいいのか。人の脳が存在を認識できるレベルのことだ。
 この世に存在するものを、仮にAとする。霊などは、Aを離れたAダッシュの存在だ。逆に災禍は、Bという存在に当たる。当然だが、普通の人間がBを視認することはできない。Aの存在を視るにはAの、Bの存在を視るにはBのチャンネルを持たないといけないからだ。霊を視ることができるのは、元がAの存在だからであるし、全ての人間に視えないのは、存在のチャンネルがAダッシュの位置にズレをおこしているからである。
 緑間が高尾にかいつまんで教えてくれたチャンネルとは、こういうことだった。
「どこでどう波長が合っちまったのかはわかんねーけど、要するにオレの目はBの存在である災禍を視る視点を持っているってことか」
「稀にいるのだよ。そういう、別の存在を視ることができるチャンネル持ちがな。そもそも俯瞰とは、言わば神の視点に近しい。鷹の目が特殊なチャンネルに合ってしまっても、そうそう不思議ではないのだよ」
 もしくは血筋かと緑間は付け加えた。
「血筋っつーと?」
「退魔の家系の血を引いていれば、嫌でも災禍は目に映るのだよ」
「なるほど」
 単純明快なことだった。
 キリが良かったのだろう、緑間はここで一旦話を区切った。そして高尾に向けて小さく首を傾けた。
「これでお前の疑問は解決したか?」
「いやー……アレが一体何なのかはわかったけど、ぶっちゃけすぐに受け入れられる話のスケールじゃなかった……」
 正直なところ、頭を抱えたくもなる。だって荒唐無稽すぎて、俄かには信じがたい。夢でもみているのではないか、という気持ちになってくる。
 しかし目の前の緑間は、至極大真面目に説明をしてくれる。現実逃避は良くない。
「……んじゃ、さっきオレに何かしようとしたのは、真ちゃんの退魔師の能力ってやつを使ったってこと?」
「……そうだ。退魔師の家系は、神々と契約を結んでいると言っただろう。その契約と引き換えに、オレたちはいわゆる自然に基づいた力を、加護として使うことができる」
「加護?」
「ああ。加護はオレたち自身に根付いた能力というわけではない。あくまでも神々の力を借り受けているというだけだ。だから、それなりに代償は必要になるのだよ。お前が視えるのであれば、視せたほうが早いか……」
 そう呟いて、緑間はステージに置いたまま未開封だったおしるこの缶を取ってくる。それを緑間と高尾のちょうど中間の床にそっと置いた。
「本来なら神酒が一番良いのだがな、代替品だ」
 パンパンと緑間が二回拍手を打つと、床に置いたおしるこ缶が忽然と消失した。
「はぁ!?」
「一献奏上。古の契約により、風の加護を左手に」
 高尾の驚きをよそに、緑間は淡々と行為を進めていく。彼が執り行っているのは、簡易的ではあるが儀式だった。おしるこ缶が消えたと同時に、中空へと差し出した緑間の左手が、柔らかい緑色の光を帯び始める。先程、高尾が襲われそうになった際に緑間が宿した光と同じ波長のものだった。
「禊ぎ祓え」
 緑間は体育館の隅へと身体を向けると、蠢いていた黒い靄に向けて左手をぶんと薙ぎ払った。ぶわり、とどこからともなく強い風が緑間の左手を取り巻いたかと思うと、解放された風は、弓矢のように黒い靄目掛けて一直線に放たれる。刹那、黒い靄は風の直撃を食らって、あっけなく霧散した。
「ほ……あ……」
 高尾が瞬きをほんの二回繰り返した間に起こった、僅か一瞬の出来事であった。
 しん、と静まり返った体育館は、清浄な空気が広がる。残された災禍が、緑間から逃げるように、ジリジリと天井付近へと上っていく。緑間はそれらに一瞥を投げると、フンと鼻を鳴らした。
「これで少しは、オレの言うことが実感できたか?」
 高尾の方へと振り返り、にやりと緑間が意地悪く唇を歪めた。明らかに、疑い気味の高尾に対するわざとらしいパフォーマンスだ。
 大したことではないように緑間は言うが、実感できたどころの話ではない。高尾は瞠目したまま、目の前で展開された事実に、ただ頷くことしかできなかった。
「エネルギーが2種類あるように、災禍にも2種類ある。人のマイナスの感情から生み出される。これが一つ。小禍と呼ぶ。主にお前が捉えていたり、今しがたオレが消したものがこれだ。命源を食らえるレベルにまで力を蓄えない限り、小禍個々程度では大した力はない。寧ろある程度は存在して然るべきものだと、オレは考えている。全てを浄化するのは簡単だが、浄化された場所はエアポケット状態になる。逆に言えばその空間は恰好の餌だ。いずれ、不用意に穢れが押し寄せる。それはバランスとしてあまりにも良くないのだよ」
「それで真ちゃんは、校内をやけに半端に浄化していたんだな」
「ほう。そこまで気づいていたのか」
 高尾の洞察に、緑間は軽く目を瞬かせた。高尾はにかっと笑った。
「話を聞いて、だけどな。最初は真ちゃんにはあの靄は視えないって思っていたから、近づいてくるのを無造作に消してんだと思ってたんだけどな。でもそれだけじゃ消しきれない場所まで、靄が浄化されてんだもん。やっと納得した。んで、2種類ってことは、その他にもっと厄介な災禍がいるってことなんだな?」
「ああ。新月の晩に、原理は解明されていないのだが、人から生み出される小禍とは比べ物にならない力をもった災禍が、所謂別の世界、チャンネルから姿を現すのだよ。これが大禍と呼ばれる存在だ。こいつらが、主に神源を食い荒らす。オレ達の目的は、この大禍を根絶させることなのだよ」
 この説明で、高尾の中のすべてが繋がった。あの新月の晩、どうして緑間が深夜の公園にいたのか。
「となると、あの夜公園にいた5人はつまり……」
「ああ。あいつらは全員退魔に関わる者だ」
「マジか」
「マジなのだよ」
 緑間はやれやれと肩を落として、眼鏡をかちゃりと押し上げた。
「何の因果か、キセキの世代は全員、退魔師なのだよ」
「ブッフォ! 何その偶然! つーか、そうなると火神とか黒子とか、桃井ちゃんは?」
「いくつか事情があるのだがな。簡単に言うと、契約者と先祖返りだ」
 退魔の家系として、神々と契約を結ぶことができたのは僅か8家。現代までその血を絶やさず受け継いでいるのは、今やキセキの世代の5家しかない。契約の加護は、火、水、風、土、雷、光、影、音で、現在断絶しているのは、光、影、音の家の3つ。
 災禍は存在のチャンネルが異なるため、所謂一般的な退魔師では調伏することができない特殊なものらしい。
「契約者とは、退魔師自身と契約を結び、加護を共有して補助を行う者のことなのだよ。桃井は青峰の契約者だ。そして、火神と黒子は先祖返りなのだよ」
「先祖返り?」
「ごく稀に、血が混ざり合って本家、分家以外のところで、イレギュラー的に生まれる存在のことだ。加護的に、火神は恐らく赤司分家筋の、黒子は今はなき黒子本家筋の先祖返りだろう」
 緑間がはーと深く息を付いた。そしてボール籠の傍に置いてあったスポーツドリンクを手に取り、口をつける。ずっと高尾に懇切丁寧な説明をしてくれたのだ。喉も渇くだろう。
「……さて、これで概ねの説明は全て終わったのだよ」
「うはぁ……。覚悟はしていたつもりだけど、オレが想像していた以上に、なんつーかアレだったわ」
 長い長い話に、高尾も些かぐったり気味だ。自分の常識がひっくり返され、頭が飽和しそうな勢いである。
 だが、どこか安心している部分があるのも否めない。ずっと自分の目が視ているものが何なのか、高尾は知りたかったのだ。
 先程まで激しい運動でほてっていた身体も、汗も引いて、すっかり冷え切ってしまった。
「アレとかいうんじゃねーのだよ……。では高尾」
「ん?」



「――すまない」



「へ?」
 ぼう、と仄かに発光した緑間の左手が、左右に2回振られる。まるで幣を振っているかのごとき禊の仕草。
「我が命源を奏上。風よ、高尾を縛せ」
 感情の乗らない声で、酷薄に緑間の言葉が響く。高尾は驚愕に目を見開いた。
 ヤバい。逃げなければ。そう頭では認識しているのに、意に反して高尾の身体は動いてくれなかった。まるで蔦にでも巻き付かれたかのように、床から足が上がってくれない。
 気がつけば、螺旋を描いた風が高尾の両足と両手に、しゅるしゅると絡んでいる。突然のことに、高尾の頭はついていかない。
「え!? ええ!?」
「問答無用で非情になるべきだと言ったのはお前だろう」
 緑間は左手の3本の指を、おもむろに高尾の額に押し付けた。ひやり、と良くない予感が、冷たく身体を巡っていく。
「……どうするつもりだよ」
「安心しろ。捕って食ったりなどしない。ただ、災禍に関するお前の記憶を消すだけなのだよ」
「はぁ!?」
 高尾は素っ頓狂な声を上げた。だが、緑間も伊達や粋狂で言っているのではないのだろう。その目は至って真剣だ。
「記憶を消すっていったってどうやって……」
「緑間の契約は先程も目にした通り、『風』だ。風の加護は、情報と流動を概念とする。つまり、だ。オレは記憶を操作することができるのだよ」
 ぼう、と緑間の翳した左指が怪しく光を纏う。淡い緑色の発光越しに垣間見える緑間の表情は、どこかこの世のもの離れしていて、壮絶に綺麗だった。高尾はごくりと息を呑んだ。
 先ほど緑間がやろうとしていたのは、強制的な記憶消去だったのかと高尾は理解する。このタイミングで再びことに及んだのは、記憶を消すのは、別に全てを話してからでも遅くはないと判断したからだろう。だって、最後には全部忘れてしまうのだから。あれだけ渋っていた緑間が、高尾にぺらぺらと内情を話したのは、諦めのためではない。油断しきっている高尾の隙を、虎視眈々と狙っていたためだった。
 にゃろう。してやられた高尾は、内心臍をかんだ。
 緑間はまるで慈悲でも与えるみたいに、柔らかな笑みを浮かべて呟いた。
「記憶の消去と共に、鷹の目が視る余計なチャンネルも封じてやろう。晴れてお前は、視界が広いだけの普通の人間に戻れるのだよ」
「オレはそんなの望んでいない!」
「お前まで、こちら側に来る必要はない」
「オイ! 勝手に話を進めんな! 人の話を聞けよ、緑間ァ!」
 高尾は必死に叫んだ。けれども、決意した緑間の意志は固い。やると決めたらやるのが緑間真太郎という男だ。
 ぼう、と緑間の左指が一際凛と光芒を放つ。高尾には抗う術はない。どうにもならない。万事休す。高尾にできるのは、反抗の意を露わにぎっと緑間を睨みつけるだけだった。
 肌に触れた緑間の指先から、じわりと暖かい『何か』が注ぎ込まれてくる。これが高尾にとっての『加護』だとでもいうのか。冗談じゃない。
 嫌だ。嫌だ。高尾の脳を無遠慮に蹂躙してくる力に、ぎりりと強く唇をかみ締めた。


 ばちん!


 電気がスパークするような音。
 突如、額に電流が走ったかと思うと、高尾を拘束していた風がやにわに霧散する。焼け付くような熱が迸り、高尾は思わず目を瞑った。
「……っつ!!」
「なっ……!?」
 指を弾かれた緑間が、左手を右手で握り締めながら焦りの声を漏らす。指と額の間に生じた反発力によってバランスを崩した高尾は、後方へとしりもちをついてしまった。
 額に手を当てる。少し熱いけれども大丈夫。記憶、問題なし。さっきまでの出来事を、しっかりと思い出せる。記憶は消されてなどいない。高尾は安堵に胸を撫で下ろした。
 では一体何が起きたのか。高尾はぱちぱちと目を瞬かせる。わけがわかっていないのは、緑間も同様だった。珍しく呆然としている。
「何、が……?」
 緑間の視線が、高尾の身体の中央へと吸い寄せられる。つられて高尾も顔を下げる。高尾のTシャツから透けて零れてくる優しい光に、二人は双眸を丸くした。
「馬鹿な! オレの加護を抗すだなんて、お前は何を持っているのだよ!?」
「ええー。何っていわれても……」
 思い当たる節は、あれしかなかった。
 高尾はごそごそと胸元を漁って、首から提げていたお守りを取り出して見せた。長い間常に身に着けていたせいで、随分ぼろぼろになってしまった、抹茶色の袋に入った高尾の守護だ。
「お守り……?」
「ばーちゃんが、どっかの神社からもらってきてくれたんだ。オレ、ちっちゃい頃、黒い靄の影響受けてて死にそうになってたんだけど、これ身に着けてから大丈夫になったんだよね。それ以来、ずっとオレのこと守ってくれてる大事なもの」
 まさかこのお守りが、緑間の加護に対抗するとは全く予想だにしていなかったのだが。
 ぽわ、と弱い光をちらつかせていたお守りは、すっとその光を収めてしまった。高尾を様々なものから守ってくれるだなんて、本当にどれだけ凄いお守りなのか。
 そういえば、一体どこの由緒ある神社から貰ってきたものなのか知らなかったなと、高尾が場違いなことを考えていると。
「――それは、オレのお守りだ」
「はぁ!? どういうこと!?」
 投下された爆弾発言に、高尾は目を剥いた。緑間は、己の額を押さえながら呻いていた。
「確かに幼い頃、災禍絡みで困っていたご夫人に、オレのお守りを渡した記憶があるのだよ……」
「うっそ、マジで!?」
「ああ。勝手に加護付きのお守りを渡すなと、めちゃくちゃ先代に怒られたから覚えている」
「ぶっは、そういう記憶の仕方!?」
「うるせーのだよ。……道理で。お前のように複数のチャンネルをあわせられるほど命源の強い存在が、何故災禍に狙われていないのか、妙だなと思っていたのだよ。納得した」
 よもや自分の加護に邪魔されるとは思いもよらなかったのだろう。緑間は、どことなくショックを受けているようだった。
 こんなところで、彼方からの縁が繋がるとは。人生は本当に何があるかわからず面白い。
 翳したお守りを、高尾は丁寧に胸に抱いだ。ほんのりとした暖かさが伝わってくる。
「そっかあ。じゃあずっと、真ちゃんがオレのこと守ってくれてたんだな」
 口にしたらすとん、と気持ちが胸に落ちた。自然と高尾は笑みを零した。心が満たされるというのは、こういうことをいうのだろうか。
 どうしてこんなにも自分は緑間に執着し、またこれ以上もなく惹かれるのかと考えていたのだ。高尾の守護たるお守りと空気がとても似ていて、単に居心地がいいからというだけではなかったのだ。緑間の加護が、高尾の人生の半分以上も傍にあって、ずっと高尾を護ってくれていたからなのだろう。
 緑間風に言うのであれば、これはきっと運命だ。
(真ちゃんは、オレを巻き込むまいと、オレの記憶を消したがっている。でもオレは真ちゃんの力になりたい)
 最初から、答えなど決まっていた。とうに腹は括れている。
 今でこそ亡羊としている緑間だが、暫くすればお守りを高尾から取り去って、再度記憶を消しにかかってくるだろう。それは避けたい。
 ならどうすればいいのか。先ほどの話の断片を思い出す。畳み掛けるなら、緑間の頭が回っていない今しかない。
「……なあ、真ちゃん。そういやさっき聞き忘れたんだけどさ、契約者って誰でもなれるもんなの?」
 戸惑っている緑間に、高尾は小首を傾げつつ質問を投げかけた。
「へ、ああ? そうだな」
「ふうん。じゃあその契約ってどうやんの?」
 矢継ぎ早に投げかけられる問いに、緑間は怪訝そうにしつつも、律儀に答えを返してくれる。
「加護の源に、退魔師への絶対の誓いとして口付けを落とすのだよ。これが契約だ。一度契約を結ぶと、どちらかが死ぬまで解除されん」
「へぇ……」
 高尾はうっそりと唇を歪めた。
 加護を放つ際、いつも左手の薬指を基点として光を帯びていた。そこが加護の源だろうと当たりをつける。
 また、公園にいた時のことを思い出す。黒子は契約者である火神と、青峰は契約者である桃井と共にいたが、緑間は一人だった。つまり、緑間には契約者がいない可能性が高い。
 記憶を消されぬためにはどうすればいいのか。簡単な話だ。高尾が緑間の契約者になればいい。
 座り込んだままだった高尾は立ち上がって、緑間の傍に歩み寄った。あわやな目にあったというのに、ひょこひょこ近づいてくる高尾へ、胡乱な目を向ける緑間の左手をそっと取る。
「左手、大丈夫だった? 痛くない?」
「あ、ああ……」
 加護同士がぶつかったせいなのか、電流のような衝撃が走ったが、大切な緑間の手は傷ついておらず、高尾はほっと安心した。
 緑間の左手の薬指を見る。付け根の辺りには、ぐるりと輪を描いて、おぼろげに煌く翡翠色をした刻印。
「契約ってさ、誓いのキスみてーだよね、真ちゃん」
「なっ……!?」
 高尾の発言から、漸く意図を察した緑間が、腕を引こうとする。だが遅い。ぐっと握る手に力を込めて、逃がさない。
「よせ、高尾!!」
「死が二人を別つまで、って?」
 上等。そう呟いてにやりと不敵に笑って、高尾は一切の躊躇いもなく、緑間の左手の薬指に唇を落とした。



* * *



 緑間の白い肌に己の唇が触れた瞬間、周囲を蛍のような緑の燐光に包まれた気がした。一瞬咲いた幻想の後、全身を駆け巡ったのは暖かさ。続いて強制的に広がった視界と、溢れ込む膨大な視覚情報だった。
「っ!?」
 ぐんと、鷹の目が自分の意思とは関係なく勝手に発動する。それも普段高尾が視ている限界範囲ギリギリを、ゆうに越えていた。
 空へと昇る、浮遊の感覚。
 高尾の視界はコートを飛び抜けて、気がつけば遙か上空にあった。ぐるりと意識を巡らせば、秀徳高校の全景を一望できた。
(なん……だ……!?)
 広範囲、360度のパノラマ。急激に展開された俯瞰風景は、ロングでもアップでも高尾の思いのままに世界の情報を描き伝える。
 高尾の目は高く高く天を上り、遠く遠く地平を見下ろし、やがてインターネットの地図サイトをズームアウトしているかのようにどんどん建物が小さくなって――。



「……っ! 高尾っ!!」



 強く呼ばれ、はっと空から我に返る。瞳に飛び込んできたのは、天井から零れてくる眩しい光と、眉をハの字にした緑間の端整な顔だった。
「……真……ちゃん?」
 瞳を開いた高尾に、緑間はほっと安堵に胸を撫で下ろした。
 現状がわからなくて、反射的に上半身を起こそうとして、高尾は軽い眩暈を覚えた。くらりと揺れた身体を、緑間が支えてくれる。
「馬鹿! 急に起き上がるんじゃないのだよ!」
 緑間がぐいと肩に手をやり、押し戻す。後頭部に当たったのは、些か固い感触。それでやっと、今自分が緑間に膝枕されているのだという状況に気がついた。
 何だこのシチュエーションは。
 ついさっきまで、緑間と言い争いをしていたのではなかっただろうか。
「……オレ、どったの?」
「お前が急に契約を結んだから、こっちの加護の制御がきかなかったのだよ。その反動で倒れた。もう少し休んだ方がいい」
「あー……悪ぃ」
「全くなのだよ」
 緑間は柳眉を釣り上げて怒っている。その怒りの源は、実のところ大半が心配からなのだからつくづく緑間は素直じゃない。たははと空笑いを見せれば、ぺしりと額に平手を食らった。そのまま、緑間は左手を高尾の瞼までスライドさせる。視界をふさがれてしまったので、高尾も合わせて目を閉じた。
「真ちゃんの手、冷たくてきもちい」
 まだ僅かに、地に足が着いていない感覚が残っている。視覚だけ上空にあったのだ。どことなく、ふわふわと浮いている心持ちだ。気分が悪くなっていないことだけが救いだった。
「なんか、鷹の目で俯瞰できる範囲がもの凄いことになってた。オレ空飛んでたわ……。あれが加護ってやつ?」
「ああ。契約をかわしたことで、鷹の目の能力が拡張されたのだな」
 元々、鷹の目と緑間の加護である風は、相性がよすぎるほどよい。制御をかけない契約によって、最大限に鷹の目の能力が引き出されてしまったのだろう。とはいえ過ぎた能力は、暴走と同じだ。
「……もう、記憶を強制的に消そうだなんてしない。お前はオレの契約者だ。だからあんな馬鹿なことは二度とするな」
「ん。サンキュ」
「……お前は物好きなのだよ」
「だって真ちゃんの相棒だもん」
 視界を覆われているので、緑間がどんな表情をしているのかわからない。けれどいつもよりもずっとしおらしく響く彼の声音に、高尾は小さく笑い声を漏らした。
 暫く高尾が緑間の膝を借りていると、入り口から見回りに来た警備員の声がかかった。ただでさえ、自主練習の後に始めた話だ。すっかり頭から抜け落ちていたが、最終下校時刻などとっくに過ぎている。
「すみません。友人が気分を悪くしてしまったので、休んでいました」
「オレももう大丈夫なので、帰ります。すみません!」
 慌てて二人で謝罪をし、中途半端になっていた片づけを行う。モップまでかけている余裕がなかったので、明日の朝練の時に早めにきてかけることにした。
 贅沢を言えばもうちょっとだけ、緑間の膝の上で寝ていたかったと、高尾は名残惜しむのだった。



* * *



 ――月齢1。
 三日月にすら届かない、か細く弧を描く月をバックに、二つの影が夜空を墜ちて行く。



 大禍とて、いつでも親切に廃墟や山奥や、人気のない場所に出現してくれるわけではない。生じる場所はランダムだ。今までの傾向を集めた統計資料が残されており、ある程度パターン化されているため、予測は可能であるが、それでも出現地点を完全に特定することは困難だった。
 一番難儀なのは、今回みたいに繁華街に根付かれてしまった時である。加護や赤司の財力を行使して、それなりに人払いや目くらましをかけることは可能だ。とはいえ限度はある。極力被害を出さず、目撃をされず、配慮に配慮を重ねて動かねばならない。こういう時、裏家業とは世知辛いと仲間内でよく嘆いているのは余談である。
 月齢0、朔日。大禍の出現地点が繁華街傍と予想され、緑間たち退魔師のお役目は、各一族総動員で密やかに厳戒態勢の中行われた。
 しかも出てきたのは、機動力に富んだ飛行型だ。
 靄のように実態が朧な小禍と違い、大禍は顕現の際に形を持つ。主に動物に似た体を取るのが殆どだが、緑間の話に寄れば、ごくごく稀に人型を取る大禍が現れることがあるらしい。
 今回出現した大禍は、烏の姿を模していた。しかし、実際の烏とは似ても似つかぬほどの凶暴さと攻撃力を兼ね備えている。
 そして厄介なことに、大禍は固体によって差異はあるものの、知性を持っているようなのだ。
 結局、繁華街を逆手に取られてしまい、戦闘は散々なものになった。
「青峰、無茶をするんじゃないのだよ!」
「うるせー! やられてばっかりでたまっかよ!」
 緑間の静止を聞かず、苛立ちが最高潮に達した青峰が、我慢しきれずに右手を振りかぶって特攻する。
 青峰の加護は『水』だ。両腕に加護を巡らせ、水を変化させて使う。基本的に近接戦闘がメインだった。
 青峰が放った氷の加護を付与した拳を、大禍はひらりと身軽にかわす。避けられてバランスを崩した青峰めがけて、逆に大禍がぶわりと上空に舞い、大きく翼を広げた。そこから羽のような闇が放たれ、ナイフの如き鋭利さを持って、青峰へと降り注ぐ。
 青峰はちっと一つ舌打ちをすると、迫ってくる闇を右手に蓄えた加護で振り払う。が、全てを薙ぐ事ができなかった。歯を食いしばり、直撃を覚悟した青峰が、左手で頭を覆う。
「危ねぇ!」
 けれども間一髪のところで、火神が残りの闇を火の加護で焼き尽くした。その間に緑間が風の刃で、大禍の追撃を食い止める。
「くそ、分が悪いのだよ……!」
 一進一退の攻防戦。こちらの被害は少ないが、敵にも致命傷を与えられていない。互いに決め手にかけたまま、かれこれ30分近く時間が経過している。例え人数が多くても、緑間たちの不利は明らかだった。
 緑間は補助組を守りながら、大禍の隙を窺っていた。しかし如何せん大禍のスピードが速すぎる。下手をすると、互いの加護の行き違いで同士討ちに発展しかねないため、手を出しかねていた。また、飛行型の大禍と緑間の風は非常に相性が悪かった。
 大禍のスピードに唯一ついていけるのが鷹の目を持つ高尾だったが、これが2回目の実践となる高尾には、まだ攻撃の手段を持っていない。
 桃井も青峰の加護の再付与と、黒子を手伝って周辺の警戒を担当している。
 黒子は四隅に加護を収めた札で陣を作り、結界紛いの人避けを展開している。黒子は影の家の先祖返りだ。これが彼の加護の一つであり、『影』と契約する黒子の加護は、どちらかといえば攻撃よりも、補助と増幅が主体だった。
 黒子の契約者である火神は、火の加護を持つ先祖返りではあるが、なにぶん能力に目覚めて日が浅い。高尾とさほど変わらず、また不器用な彼は未だ加護の制御が上手くない。
 比較的近場にいる黄瀬は今日のお役目に参加できず、主力として動けるのが、青峰と緑間しかいなかったのがまずかった。
「くっ……! いけない、囲いが破られます……っ!」
 黒子の、焦りの混じった声が響く。
 大禍自体も、この戦闘に見切りをつけたのだろう。こちらの攻撃の合間を縫って、黒子の囲いを破ろうと闇を放ち、身体を体当たりさせた。
 ぱりん。薄いガラスが割れるような音が、鼓膜を打った。黒子の加護が破られたのだ。
 はらはらと花吹雪の如く散る黒子の加護の中、大禍は悠然と漆黒の翼を羽ばたかせ、闇夜に紛れた。
 その様子を、一同は呆然と見送ってしまった。
「ぼうっとするな、馬鹿! 追いかけるのだよ!」
 緑間の言葉にはっと我に返った面々は、鷹の目を使って逃げた大禍を慌てて追跡する。しかし、逃げ込んだ先が始末の悪いことに繁華街だ。高校生がうろちょろしていい時間ではないし、大勢で移動すればそれなりに人目に付く。
 目立たないようにと遠回りをした末、大禍を特定したのが高層マンションの上層階だった。
 向かいの建物からためしに仕掛けてみたものの、正面からの攻撃は弾かれ、マンションの屋上から直接狙いを定めればベランダの物陰に隠れて回避、高さがあるせいで近接戦闘も行えない。何よりこの高層マンションは人が普通に住んでいるのだ。こしゃくにも、この大禍は己の有利がどこにあるのかを理解していた。
 時間をかけてしまえば、その翼でまたどこかへと逃げられてしまう可能性も高い。折角補足したのに、ロストという最悪の状況に陥るのだけは避けなければならない。
 けれどもこの時点で軽く日付をまたぎ、もはや丑三つ時に近かった。退魔師の前に高校生という身分だ。しかも大禍を撃つには、決まり手に欠けていた。
 のうのうと神源をむさぼられている姿を前に、6人は悔しさを滲ませながらこの場を後にするほかなかった。長時間の戦いで、疲労も溜まり、加護も尽きていたのだ。
 本来ならば、出現した大禍はその日のうちに始末することがベストであったが、不幸中の幸いというならば、経験的に烏の大禍一体では、一日程度で大規模に神源を食い荒らすことはできない。大禍が撒き散らす小禍の影響の後始末が面倒にはなるが、むやみに攻撃を続けるより、対策を練ったほうが得策だという判断の結果だった。まだ時間はある。
 戦術的撤退なのだよ。緑間は遙か頭上で食事をしている大禍をきつく睨みつけ、眉を顰め負け惜しみを呟いた。
 唯一幸運だったのは、逆にここにいれば退魔師がおいそれと手出しができないと、大禍が認識したことだろう。
 見張りからの報告によると、夜が明けても大禍は高層マンションから動かないまま、じっくりと神源を食らっていた。力を蓄えているとのことだ。
 油断をしているのなら、寧ろ好機だ。


 放課後。
 緑間の家に泊まると言って昨晩の戦闘をこなした高尾が、流石に二日連続泊まりで誤魔化すのはきついと一旦家に戻っていった。高尾は後から家を抜け出して合流する手はずだ。その間に、火神の家にて残りのメンツで対策を講じた結果、高層マンションの真横から、緑間による超長距離狙撃という、未だ実践したことのない一発勝負に賭けることとなったのだ。
 難を言えば、あまりに急に決まったため、狙撃用に選定された高層ビルの部屋を押さえることができなかったことだろう。
「緑間君が、屋上から落下しながら狙撃すればいいじゃないですか。丁度風の加護もありますし、何も問題ないですよね?」
 鶴の一声とは、まさしくこのことだった。





 内臓がぶわっと浮き、せり上がってくる感覚。安全装置のないフリーフォールなどと揶揄したが、安全装置があることがどれだけ心強いかを実感する。遊園地のアトラクションなど目じゃない。
 重力に従って加速を続ける身体は、当然だがかかる圧力もきつい。下から吹き付ける強風に、呼吸もままならなくなってくる。おかげで悲鳴を上げる余裕もなかった。
「っぐ!」
 息が詰まる。高尾が声になりきれない声を漏らしたと同時に、急に加速が落ち着いた。煽られる程強かったビル風もおさまっている。空中にいるのに、地上にいるのとさほど変わりない環境は、緑間が加護を使って速度の調節を行ってのことだろう。
 およそ30メートルほどの落下。時間にして僅か数秒の出来事。もう二度と体験したくないなと高尾は辟易する。呼吸は浅く乱れ、心臓がさっきからドクドクと高鳴って煩い。緊張と興奮で、体温が無駄に上がっている。
 情けないなどというなかれ。恰好つけてみたものの、やっぱり恐いものは恐かった。
 そもそも速度の加減ができるのであれば、最初から使ってくれればよかったのに。高尾が恨みがましい視線を送ると、涼しい顔をした緑間はいけしゃあしゃあと「ショートカットなのだよ」とのたまった。
 緩やかな速度で落下を続ける中、緑間は足場が覚束ないのか、左手を足元に向けて左右にゆるりと払う。
「我が命源を奏上。風よ、足場を」
 すると緑間の足裏にのみ、ぶわりと上向きの風が生まれた。重力と風の反発力を利用し足場を固定する。それを確認するなり、緑間は呼吸を整えると腰を落として左手に弓を携えた。
「早く落ち着け、高尾。制御をお前に渡す。照準を寄越せ」
「……あいよ、もう平気」
 取り乱している場合ではない。ふうと大きく息を吐き、高尾は気を取り直して頷いた。緑間の左手の薬指が光ったかと思うと、そこから生じた風が高尾の周囲を旋回し、ぱちんと弾けた。同時に、高尾の中に共有された加護が増幅する。
 加護は退魔師の意思で、どこまで契約者に制御を与えるのかを決定できる。いい例が青峰と桃井のコンビだ。あの二人は特殊で、青峰が攻撃のみに特化し、残りの加護の制御を全てを契約者である桃井に任せるというスタンスを貫いている。これでは一体どちらが退魔師かわからないが、当人たちがそれで良しとしているので問題にはなっていない。
「古の契約に基づき、五穀、神酒を奉納。災禍を貫く矢を賜り給え」
 朗々とした呼びかけに、弦にかけた右手に周囲から空気が渦をなして象り、風で作られた矢が生じる。その矢を番え、緑間は弓を構えた。
 彼がゆがけを必要としないのは、この弓が神々から与えられた代々伝わる神器であり、風の加護が指を傷つけることがないからだという。
 一方高尾は、緑間の左隣に陣取った。緑間が投げてきた落下速度の制御を行いながら、一度瞼を落とし、再び双眸を開く。
 鷹の目を展開。ぐん、と視野が広がる。
 ターゲットは、前方約1キロ先にある高層マンションの一角。
 大禍がほぼ昨夜から移動していないことは既にわかっていたので、今回は俯瞰からの全方位に対する索敵は必要なく、すぐに位置を特定する。
 緑間の風の加護は、本人の性質も相俟って攻撃属性としては長距離を得意としていた。だが、そこで問題となってくるのは照準だ。いくら長距離の砲弾を攻撃手段としても、当たらなければ意味がない。特に長距離精密射撃になると、たとえ照準器があったとしても誤差が生じ焦点がぶれる。
 スコープが装備されている銃とは異なり、緑間は弓を攻撃補助の武器として使っている。弓は己の目が照準だが、ただでさえ緑間は視力に乏しい。長距離狙撃ができれば、攻撃の幅が広がるものの、命中率の低さ故に二の足を踏んでいた。
 そこで幸運にも現れたのが、高尾の鷹の目だった。
 契約を結んだことにより、緑間と高尾は加護を共有できる。すなわち、増幅され更に広い視野を持つ鷹の目を照準の代わりにすることで、弓による長距離射撃の欠点だった命中率の低さを補うことが可能になったのだ。
 緑間が両の拳を掬い上げ、右手と左手を引き分けた。流れるように弦が伸び、きりきりと微かな音を立てる。ぴんと張った胸と、凛々しく先を見据える緑間の真剣な表情は、とても美しい。
 こっちも負けていられない。ターゲットを確認後、鷹の目を、緑間の目とリンク。狙いは高尾が定める。
 身体は常に下へと落ちており、速度の制御を行いながら、照準を合わせるのは想像以上に骨が折れた。何せ、まだ実践はこれで3度目の初心者なのだ。緑間の契約者になってからこっち、バスケだけでなく照準指示の訓練も何度となくしてきたとはいえ、あっさりと無茶をさせるものだ。しかも全く想定外だった、空中落下中における高難度の狙撃。高尾の額から一筋汗が流れた。
 脳でイメージするのは、スコープが持つ十字のレクティル。視野を絞り、きりりと細めていく。
 集中した高尾は、瞬きの回数が激減するほどじっと一点を凝らしている。それは、敵を捕えるために、静かに隙を窺う猛禽の姿だった。
「敵影補足。位置微調整宜しく、矢を左に12度、上に4度……オッケー」
 高尾から与えられた指示に従い、引き分けを完成させた緑間は、彼の瞳には映らない大禍の姿を眼裏でイメージする。
「行くぜ、真ちゃん。カウントダウン、5、4……」
 射撃の目的地点まで、高尾が秒読みを開始する。
「3、2、1、今だ!」
「オレの睡眠時間を奪った罪は重いのだよ! 禊ぎ払え!」
 高尾のカウントダウンに重ねて、緑間が叫びを上げる。合図と同時に緑間の弓手は弦を離れ、弓から風の矢がひゅっと発射された。
 どんだけ眠かったんだよと、高尾は内心ツッコミを入れた。
 風の神から賜った弓矢は、空気抵抗を受けることも、高度を落とすこともなく、ほうき星のようにするすると宵闇を駆ける。大禍が、横からの強襲に気づいた時にはもう遅い。夜空を切り裂いて、長距離をものともせず矢は大禍のど真ん中を見事貫いた。
 穴の開いた大禍の中心から、靄が立ち上りぱぁんと四肢が弾ける。闇の化身の如き黒いその姿は、さらさらと砂礫のように形態を崩し、風に流れてやがて跡形もなく消え去った。
「……大禍、消失を確認。お疲れ、真ちゃん」
 残心の体勢に入りつつも、いつでも次の射撃に入れるよう警戒を解いていなかった緑間は、高尾の言葉を受けて、漸く構えていた弓を下ろした。
「……お前もな」
 二人は互いの健闘を称えるように、にっと口角をつりあげて笑みを交わした。
「うわー……上手くいってよかったあ……」
 随分精神を張り詰めていたからだろう。作戦をどうにかこなせた安心もあったのだろう。張り詰めていた気が緩んだせいか、身体がどうにも重い。高尾は空中だというのに、思わずその場にばっとへたり込んでしまった。
「ばっ……!? 気を抜くんじゃないのだよ!」
「へ……!? ……っうおぉ!?」
 ぎょっとなった緑間の注意も空しく、がくんと身体が落ちる。突然のことにバランスを崩して、高尾はまっさかさまに墜落していく。
「加護の制御をこっちに返せ!」
 高尾が制御を取れないということは、共有している緑間も影響を受けるということだ。一緒に落下しながら、緑間は高尾に向けて手を伸ばした。
 再制御をすればいいのだろうが、急なことに動揺して上手く加護を操ることができない。契約者としての経験の浅さが、こんなところで出てしまった。情けないと思いつつも、高尾も必死に手を伸ばす。
 高尾と緑間の指先が触れた瞬間、緑間の刻印がぼうと輝く。そのまま緑間に腕を掴まれ引っ張り上げられる。高尾に委譲されていた加護の制御が緑間の元へと戻ると、すぐさま加速は落ち着いた。また、ふよふよと空中に浮かんだ。
 えへへと高尾がばつが悪そうに頬をかいて苦笑いを見せれば、緑間は青筋を立て眉を顰めた。当たり前だが、これは相当お冠だ。
「せ、セーフ……?」
「こんの馬鹿が! 最後の最後で油断するとか、ありえないのだよ!」
「ご、ごめーん、真ちゃん」
 大変間抜けな体勢になっている空中で、説教モードに入られるとは思わなかった。しかし緑間の言うことは最もなので、反論の余地もない。
 身を縮めて大人しく緑間の説教に耳を傾けている高尾に、すぐさま救世主は現れた。
「……何をやっているんですか、君たちは」
 からりと窓を開け身を乗り出してこちらを覗き込んでくる、呆れ気味の黒子の瞳に迎え入れられる。32階。どうにかキープできた合流地点の部屋だ。
「は、はは……」
「気づかれたらまずいんですよ。静かにして、とっとと戻ってください」
「面目ない……」
 流石に今がどういった状況なのか、我に返った緑間も反省して肩を竦めた。加護を制御して、黒子が開けてくれた窓から、二人は室内に滑り込む。
 とん、と爪先が床に着地する。固い。地に足が着くというのは、こんなにも安心するのか。今度こそ高尾は、盛大にその場にしゃがみこんだ。
「ふへぇ……疲れた」
 時間にしてみれば大して経過していないのだろうが、あまりにも濃密な時間だった。
 電気もつけられていない真っ暗な部屋の中にいるのは黒子だけだ。他の面子は、万が一の事を考えて別の場所に待機している。
「お疲れ様でした。そんなに呑気にしているということは、上手くいったんですね」
「照準があるのに、オレが的を外すわけがないのだよ」
「つーか、何、初心者のオレにあんな提案してくれちゃってんの、黒子!」
「ボクはあくまでも提案しただけですよ。承諾したのは緑間君です。それに、『高尾がいるから余裕なのだよ』ってドヤってましたから」
「なっ……! く、黒子ぉ!!!」
 しれっと内情をばらした黒子に、緑間はかっと顔を真っ赤に染めて叫んだ。
「うひゃー! マジで!? 真ちゃんのデレとか貴重~!」
「揶揄うんじゃねーのだよ!」
「またまたー照れちゃってー! 真ちゃんてばかぁわいいんだからー」
「お前の目は腐っているのか!? 195もある男に向かって、可愛いとかありえないのだよ!」
「ブフォ! 腐ってねーって!」
 だらしなく相好を崩す高尾に、益々緑間は噛み付いてくる。打てば響くから弄られることを未だ理解していない緑間は、高尾の恰好の餌食だ。
 そんないつもの二人のやり取りに、黒子はご馳走様ですと零して割り込むと、緑間の目の前にずいと鍵を差し出した。反射的に掌を広げた緑間の上に、黒子が鍵を落とす。
「この部屋は赤司君がキープしてくれたので、暫く休んでいても問題ないですよ。落ち着いたら下りてきて、携帯に連絡ください。鍵だけよろしくお願いします。ボクは他の方々と合流して、赤司君に状況報告しておきますね」
 お疲れ様でした。そう言い残して黒子は部屋を後にした。
 しんと突然室内に静寂が降りる。この場に残された高尾と緑間は、静かに顔を見合わせる。
「オレの照準、どうだった? バッチリだったっしょ!?」
「己惚れるんじゃねーのだよ」
 緑間はすげない。まあ最後にやらかしてしまったので、結果としてはイーブンだろう。
「ちぇー。まだまだなりたてホヤホヤの契約者だけどさあ。……なあ、オレが契約者でよかっただろ?」
 高尾の声に、緑間が軽く目を瞠った。
 緑間は今も、たまに高尾を巻き込んだことを気に病む。高尾が選んで、無理やり契約を結んだ、いわば押しかけ契約者もいいところだというのに、だ。
 だから高尾は、自分を契約者にして良かったと緑間に思わせたかった。役に立ちたかった。ずっと緑間の加護が高尾を護ってきてくれたのだ。今度は、高尾が緑間を護る番だ。
「フン。これから先も人事を尽くせ」
 ふいと視線を逸らして、照れ隠しにかちゃりと緑間が眼鏡のブリッジを押し上げた。
 今はそれでいい。足手まといになっていないのなら充分だ。
「はいはい。んじゃ改めて! お疲れ、真ちゃん!」
 にこっと笑って高尾が拳を上げる。きょとんと緑間が目を瞬かせた後、ふっと表情を和らげた。
「……お疲れ様なのだよ、高尾」
 翳した高尾の拳に、緑間もこつんと己の拳を合わせた。



* * *



「――ということで、こちらはどうにか無事に大禍を消滅させることができました」
「そうか、それはご苦労だったね。真太郎にもお疲れ様と伝えてくれ」
「はい」
 高層ビルから少し離れた場所で待機組の面々と合流し、黒子は報告のため赤司に電話をかけた。電話の向こうの赤司も、お役目を終えられたことに心なしかほっとしているようだった。
「ところでテツヤ。一つ気になることがあるんだが……」
「何でしょう?」
「テツヤの話を聞く限りだと、今回の長距離射撃は、角度的に考えれば屋上からでも充分間に合っていた気がするのだが。別に空中落下をしながら、狙撃する必要はなかったんじゃないのかい?」
「…………………」
 赤司からの指摘に、思わず黙り込む。
 しばしの重い沈黙の後、黒子は息を吸って静かに唇を開いた。
「赤司君、世の中にはノリと勢いが大事な時もあるんです」
「……つまり、頭になかったと」
「みんな眠かったんです……」

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